Blog Book of Captainyama

76ヶ国の海外旅行記です。 1999年からの世界旅行を2007年6月までのセブ島滞在中に ブログにしたものです。

2011年11月

Blog Bookを作りました

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(2011年初夏 自宅庭で  娘が写す )

 Jugemブログで公開していた私のブログ 
  『Blog of Captainyama』をLivedoorブログで再公開する事にしました。

 写真の引越しが出来ない事もあり
 今回は旧作より大判の写真を使う事にしました。

  前作を書いた2006年当時、写真のサイズ制限があり
 本当に小さな写真で満足しなければならない情況がありました。

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(アフガニスタン 2004年)

 Lolipopのレンタルサーバーは200MG(現在13G)しかなく
 動画など掟破りでアップしていました。
 僅か5年で驚く程の進化がありました。


 当初からブログと言うよりは書籍だと思って書いていました。
 アクセス解析を見ても
 検索エンジンから跳んで来る読者が80%おり
 公開後5年が過ぎてもアクセス数は安定してあります。


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(エチオピア 湖水地方 2002年)

  このブログブックは1999年11月がら2006年11月までの
 私の海外旅行 セブ島滞在等を記事として書き上げたものです。

  2006年12月から2007年6月までの7ヶ月のセブ島滞在時期に
 一気に書き上げました。
 人生に区切りをつけるために僕にはどうしても必要なものでした。


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(シルクロード走破 西遊 石川女史と 2001年)

   現在はプロのフリービデオカメラマンとして活動していますが
 この当時の幼稚な動画を見ると顔が赤くなるのですが
 これも歴史だと思い諦め削除しない事にしました。

 百話ありますので御興味のあるものだけ御読みください。

 どうぞ宜しく!

 ※尚このブログは過去の作品を掲載している為 
 今後新しい作品の掲載は有りません。

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 (札幌の自宅です)

  別のWEBサイトに揚げた旅行履歴を転載します

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続きを読む

108回御愛読 ありがとうございました

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(セブ島  コンドミニアム玄関    2007年)

 2006年12月30日のcebu-sunstarの初稿以来
 本日まで計108回毎日更新して来ました。

 思えば3ヶ月・103日間よく書き続けたと思います。
 其々の作品を書いて居た時の思い出が有り
 旅行の思い出と重なってウーンと思ってしまいます。

 この間セブでも色んな事がありました。
 このブログはブログの範疇に入れようとすると無理が有ります。

 captainyamaの一冊の単行本だと思って頂けたら良いと思います。

 1999年から世界旅行を始め、今までに75ヶ国
 よく歩いたと思います。

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(アルバ島  カリブ海クルーズ 2004年)

 旅行はお金だけでは無く、体力があり、家族に重い病人が居なく
 自由な時間が確保でき、且つ好奇心が無ければ出来ない物です。

 人生で斯ういう時間は極僅かです。
 僕は40代中旬から50代初旬までの8年間
 早いリタイアリーを経験でき、ラッキーでした。

 人生の時間を区切って
 経験を総括する必要を前々から感じていました。

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(セブ島 コンドミニアム パークタワー2   2002年1月購入)

 2006年12月からの3ヶ月間 
 108話のブログを書上げて目的は達成出来たと思います。

 整理仕切れなかった経験のモヤモヤが解消できました。
 それで此のブログでの
 旅行記としての新規の更新は今日で終わりにします。

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(このテーブルで書き上げました)

 此のブログの最大の読者は私 captainyama 本人です。
 文章の至らない処は今後手直し致します。


 カテゴリーを読みやすいように直そうと思っています。
 今後、読者の皆さんが見る度に
 ページの彼方此方が変わっている事も有りえます。

 使用した写真634枚、全ロリポブログの全登録写真枚数
 6万4千枚(2007年4月現在)の1%が僕の写真です。

 今現在としては写真の多いブログでした。

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(バギオ空港 クロスカントリー)

 色々頂いたコメントは作品の性格上
 公開していないモノも有りますが
 僕は全て有り難く拝読させて頂いております。

 世界旅行記を108話書くと、膨大な種類の固有名詞が出てきます。
 検索サイトで調べ物をしているとエッ アレッ これ僕のブログだ
 (Blog of Captainyama)。

 自分のブログに遭遇し、恥かしい思いをする事が有ります。
 アクセス解析を分析すると
 検索サイトからページ毎に来訪頂く方がとても多く
 手間をかけて来訪頂き本当に有難う御座います。

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(セブドクターズの医学生と 今は立派な御医者さん 2002年)

 108話を一晩で読むのは大変です。
 読み方としては
 御興味のあるカテゴリーから順に読んで頂ければ幸いです。

 今後、構成を考えたいと思っています。
 2007年3月のアクセス数は6163回でした。

 昨日までに頂いたこのブログの
 合計アクセス数は 約18,000回 でした。

 今後他のブログから此の作品に跳んで頂く事も含め
 この作品は大事に使おうと思って居ります。


 御愛読有難う御座いました


 2007年 4月  11日  

 セブに暮す冒険家でパイロットの御馬鹿なcaptainyama 

         

追伸  今後は皆さんのブログを覗きに伺います。

   

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(自宅コンドミニアム エレベーター前)

冬の北海道 厳しい!厳しい! マイナス18℃  セブは通年32℃ その差50℃ 同じ地球かな?

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  冬の札幌です。厳しい厳しい冬です。


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 吹雪の日は暖かいのですが、シンシンと冷える晴れた日の夜明けは
 マイナス18℃も珍しくありません。

 此の写真は札幌中央区の市電通りです。
 僕の札幌のマンションはこの近くに在ります。

 札幌近郊の自宅は完全エコ住宅なので外の雪嵐も全く関係なく
 Tシャツ1枚でokなのですが

 札幌のマンションは築30年の古い建物なので
 厚いコンクリートが冷え切って氷の住宅のようです。

tokeidai
  
 御存知 時計台です。
 夕食に出て偶々 時計台に遭遇しました。

 ここで記念写真をパチリと一枚、セブと同じく札幌も観光地なのですね!
 凄く寒かったです。 

 多分マイナス10℃。  シバレルー!


 駅で特急列車を待っています。これから札幌に行きます。


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 息子の誕生日プレゼントを兼ねて
 我が家だけの雪祭り雪像をつくりました。

 息子の顔に似せた積もりだったのですが
 家族は僕の顔に似ていると言います。   そうかなー?


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(庭にインターロッキング 敷きました)

 周辺工事が終わり
 9月にようやく庭にインターロッキングを再敷設が出来ました。

 150㎡の庭ですが草むしりが大変でした。
 今年の夏は草むしりが不要になると家族は大喜びです。

 7月にセブから帰国して毎日pc三昧の日々でしたが
 此のブログの新規記事の更新は8ヶ月有りませんでした。

 動画や写真は頻繁に追加してはおります。
 放置ブログでしたが、毎月アクセスは3000を超えています。

  世界旅行の記事を検索で見て戴ける方が殆どです。
 これだけ固有名詞が出てくると
 アクセスも安定して有るのだと納得しました。

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(2008年 初夏 自宅庭で)

 それとセブ関係のアクセスが
 この2~3ヶ月随分増えて来ています。

 それで2月20日からセブに行きます。
 滞在予定はタブン1ヶ月前後だと思います。

 スポーツクラブで毎日泳ぐぞー!と決めています。
 マイナス18℃の北海道からプラス32℃のフィリピン・セブ島。

 その差 50℃。考えただけで恐ろしいですね 
 50℃の気温差ですよ! 50℃ 50℃ 50℃  ドッヒャー

  サンシャイン・ビーチ・リゾートにも遊びに行きます。
 jazz'n bluzにも行きます。
 ミッキーズカフェのケーキも楽しみです。


 エチオピアカフェにも行きます。
 SMショッピングセンターやアヤラモールも最近増築したらしいです。
 wineshopのライブも楽しみです。

 セブの皆さん又お会いしましょー!
  

2008年 2月 札幌雪祭りのmovieを撮りました。youtubeにアップしましたのでどうぞご覧ください。欧米人の観光客が多いのに驚きました。札幌は国際都市ですね!


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HFS フライングクラブ 最北端のフライトクラブ

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(みんなで乾杯) 
 
 7月、未だ僕が札幌に居た頃、フライトクラブ有志で函館の近く
 鹿部空港に集りバーベキューパーティー兼
 懇親フライトを楽しみました。

 札幌のフライトクラブは日本最北端のフライトクラブです。
 年の内8ヶ月だけの稼動、4ヶ月は雪で冬眠しています。
 通年活動出来る本州の其れに比べ営業上の不利を抱えています。

  クラブ員の特徴はと云えば、お医者さんが多いのは何処も同じですが
 自衛隊員が可也いるのが特徴です。

 やっぱり北海道ですね。
 東京のようにトンデモナイ大金持ちは居りません。
 テクノクラートと云うかインテリと冒険家的精神を持った方
 面白い人多いですよ。

 アマチュア・パイロットって変った人多いですよ・・・・私もそうか!
 類は類を呼ぶんですね。

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(セスナ172)
  
 サラリーマンが多いと云う事は一人当たりのフライト時間が少なくて
 人数が多いんです。

 セブは良いですよ年中夏、アイシングは無い、
 着陸時キャブヒートは使いません。 

 グアムで飛んだ時、何処からとも無く突然の大嵐、察知して直ぐ着陸
 5分遅れたらアウトでした。

 周りに代替空港ないですからね、グアムは。 
 フィリピンはトンデモナイ滑走路だけど空港は沢山あります。

 鹿部空港は素晴らしい空港でした。
 山に向って登り勾配、駒ヶ岳が有り風が強いのを除けばですけど。

 訓練生が居なくて今は殆ど使って居ませんでした。勿体無いですね。

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(鹿部の漁港です)
           
 2日目は津軽海峡を渡って青森・秋田の大館に行ってきました。

 日本の空港は滑走路も空港ビルも完璧ですね、セキュリティーもいい。
 フィリピンの空港ビルは小屋です。

 僕がよく利用したレイテ島のイロンゴス空港
 番人が草刈機のガソリン代が無いと云うので
 行く度に500ペソ寄付してました。

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(レイテ島  イロンゴス空港 空港小屋)

  暫く御無沙汰で2ヶ月後に行った時
 芝生だと思ってた滑走路に2m丈の草が生えていて
 飛行機は草の林のなかに突入着陸。
 前も横も滑走路脇も見えず、危うく滑走路から飛び出しそうに成りました。

 怖かったです。
 着地の時、草が周りからボウッーて昇って来る感じ、一生忘れません。

 飛行機から下りた時、機体は草だらけ、車輪もスピナーも翼にも
 山から降りてきた小野田少尉状態でした。


 ともあれ、大館空港、青森・恐れ山上空、函館山を1500fで楽しんで
 バーベキューも満腹で、合宿フライトは終わりました。

 クラブ職員の皆さん、参加者の皆さん、お世話に成りました。
            

     それではまた後日
    


clubflightの様子をyoutubeにupしました。御覧下さい。


short movie ボホール島 フライト フィリピン

flight003

(セブ島周辺で飛んでいます。インストラクターと写す) 


 セブ島を御存知の方は多いと思います。

 ボラカイなど問題外の規模と美しさを誇るセブ島の珊瑚礁群は
 実はボホール島とセブ島の間に挟まれた海域にあります。

  セブに遊びに行ってもビーチクラブやホテルに居ただけでは 
 セブ島の美しさは全く分らないのです。

 バンカーボートで2時間以上走るか
 セスナ機で一時間程飛んで始めてセブ島の美しさが分るのです。

  セスナ機を 更に一時間飛ばすと

 

 ボホール島の州都タグビララン周辺の
 未だ手付かずのバージン諸島群プントド島・パミラカン島を
 上空から見渡す事が出来ます。

 ボホール島のビーチリゾートから
 バンカーボートで行くのが一番感動的です。

 一生忘れられない、ウオーッと叫びたくなる瞬間を味わえます。

  その時の感動をまた味わいたくてセスナ機を操縦して
 マタマタ出掛けてしまいました。感動は天候に左右されます。

 今回は同乗者に後部席から撮って貰ったビデオを編集しました。

  オランゴ島・チョコレートヒルズの展望台も入れました。
 セブ島の日差しの匂いが伝われば成功です。


  


  セブに住んで居る現地の人達は
 コンナ綺麗な風景が有る事を知りません。

 話には聞いていても実際に見た事はないのです。

 セブに居ただけでは働くだけです。
 半径5キロ以内で生活して一生を終えるだけなのです。

   観光で来て更に御金を使って初めてセブの美しさが分るのです。
 世界中同じかも知れませんね。
 
 フィリピンセブ島に来る事があったなら
 是非バンカーボートやセスナ機で
 セブ島 ボホール島の美しさを堪能していって下さい。


      BOHOL島フライト      それではまた後日

ショートムービーを始めました。

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 先月ブログにも書きましたが

 セブ・ゴロルド・アヴェニューのレストランThe Wine Shop
 客層も良く、素晴らしいレストランです。


 先週オーナーに御願いしてビデオを撮らせて戴きました。

 昨日編集して50分の完成版とは別に5分間のweb版を作りました。

 内容はスペイン人の看板歌手のステージ・ミュージック・ビデオです。

 看板歌手の旧友がマニラからセブに来訪され
 友人がボンゴを敲いてステージを楽しんでいます。

 踊りだすドイツ人のオジサンも居ます。
 大変美人のフィリピン人歌手がいます。
 皆で楽しむレストランの雰囲気が伝われば成功です。

 看板歌手は話術が巧く

 この夜も
 誕生日 離婚 新しいボーイフレンド誕生の人は居ませんか。
 皆で祝いましょうと聴衆を笑わせていました。


  

 ザ・ワイン・ショップ是非行ってみて下さい。
 オーナーもミュージシャンもとても人柄が良い人達です。
 
 欧州人とセブの上流社会の顧客の多いレストランです。
予算はカップルで行く場合、大判ピザとワイン1本で1500円程です。

日本では考えられない金額です。

木・金・土曜日pm9時からライブが有ります。

  
   The Wine Shop
        


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           それではまた後日

  

トレド 生涯にもう一度行きたい街 スペイン

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 (トレド全景が見渡せる丘のうえで)

 貴方にとって生涯にもう一度行きたい街は何処でしょうか。
 僕はトレドです。
 3回目の海外旅行でスペインに行きました。

 娘と共に。
 其れまで長い旅行はした事が無く
 何をスーツケースに入れるべきか知りませんでした。

 其れで小さな手提げ鞄一個
 「旅慣れてるねー」と言われ上機嫌で居ました。

 その結果、目覚まし時計が無くて寝過ごすわ
 うがい薬が無くて風邪をこじらせるわ
 スリッパが無くてホテルで不自由するわ、で大変でした。

 携帯品の量は旅の回数を重ねる内に増大し減少し
 その結果、最大効果で最少量に質的に向上する物です。

 怖い思いをしながら
 磁石 地図 鍵 薬 電池 防寒具 履物 財布 バッグ
 飲み物 非常食 現地への御土産 防虫品等々
 知恵が付いて来るものです。

 此の時はファッショナブルなマントを纏い革の長靴を履き
 短期多観光のパックツアーには凡そ似合わない服装でした。

 だからアッチでもコッチでもエッ エッの連続でした。

 野次喜多珍道中です。

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(風車小屋の前で・・・ドンキホーテな二人)
 
 エル・グレコの作品は御好きですか。

 スペイン・ルネッサンス期の画家エルグレコ。
 十数年程前、上野の西洋美術館で特別展が開催された時
 観に行き、それ以来大好きに成りました。

 トレドにはエルグレコが溢れて居ました。
 彼は此処で、73歳で没するまでの37年を過ごし
 教会や町の為に実に多くの作品を残しています。

 エルグレコ無しにトレドは語れません。

 西洋ケーキのコンクールで見た
 メルヘンチックなデコレーションの巨大ケーキ。

 お菓子のような、ケーキのような
 御伽噺や童話に出てくるメルヘンの世界。

 それがイベリア半島の高原の街トレド
 スペインの宝石トレドなのです。

 トレドに着いたのは10日間のパックツアーの7日目
 ミラノでの長時間のトランジット。

 一日10時間以上の高速バス移動。
 時速120㌔は出ていると思われる高速バスは
 トルコ フランス スペイン旅行の特徴です。

 低料金・定番の人気旅行でバスに余席は有りません。

 参加者は70歳代前後の高齢者が多い旅。
 参加者はもうフラフラでした。

 石畳でアップダウンが多いトレドの街
 遠くから観るとメルヘンで宝石のような街トレド。

 疲れた身体で歩くとキツイわ本当に!。

 三晩位時間を取り
 ゆっくり暮らすように楽しむトレドの旅、最高の贅沢でしょうね。

 如何ですかcaptainyamaお奨めの特選の旅。

 石畳の路上カフェで珈琲を啜り
 千年の都の建物の隙間に身を置き
 イベリア半島の空を流れる雲を見上げながら
 御自分の来た人生を振返ってみるのも旅の醍醐味では有りませんか。

 奥様を横にして!

     それではまた後日

ハワイの何処がいいの 


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(ハワイといえばフラダンス) 

 日本の何処の旅行代理店に行っても
 ハワイと香港のパンフレットの無い所は有りません。

 昔から海外旅行と云えばハワイ。
 クイズの当選旅行もハワイ。
 紅白の後は芸能人はハワイに行くものと相場は決まっています。
  

 では何故ハワイなんだ。
 へそ曲がりのcaptainyama、ハワイに行ってきました。

 入国審査を済ませバッゲージを受取りました。
 観光客は日本人だらけ、そして方言 方言 方言だらけ

 九州 東北 大阪
 普段聞く事の出来ない日本中の方言だらけでした。

 此処は上野駅?。  

 それだけ人気と知名度のある海外観光地なのです。
 着いたお客様は旅行代理店毎にピックアップされ
 流れ作業で仕分けされます。

 薄利多売の旅行業界なんですね。
 着いたホテルはオハナ・マイレ・スカイコート。 

 ウーンッ安いから仕方無い!。

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  ここで問題が生じました。

 ハワイと聞いて私も行きたいと言い出し連れて来た娘が
 機内で風邪をひいてしまい
 飲ませた薬が効きすぎて眠ってしまったのでした。

 何時もは汚い 危ない 遠い所ばかりの旅ですので
 行きたいとは言わないのですが・・・・。
 
  半日島内観光、ワゴン車に乗ると眠り
 目的地で無理やり起こし、半分眠ったまま歩き
 車に帰って来てまた眠る。

 これを繰り返し私も娘もグッタリに成ってしまいました。

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(楽しい日本人のドライバーガイド  いい人でした)

 ブログランキング等を見ると
 ハワイ在住の方のブログを多々見かけます。

 相当多数の方がコンド等に住んでいるのでしょう。
 今回は駆け足の旅行でしたので
 在住者社会は覗けませんでした。

 僕もセブ島に住んで居るので分りますが
 在住日本人は観光客のみる世界とは違う世界に住んでいます。

 観光で来て素晴らしいと思っても
 永く住むと確実に飽きます。

 狭い島なら尚更です。
 飽きさせない程多くのリゾートとしてのアクティビティが有るのか。

 多様な種類の食事が有るのか。
 価格は如何なのか。
 良好な日本人のコミュニティが有るのか。

 其の島にだけ住むのは大変な事です。

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 (ハワイ島に行ってきました)

  僕の見た限りハワイは複数の島があります。
 伝統ある観光地なのでアクティビティも多数あるでしょう。

 アメリカのビーチリゾートは何処でもクルーザーが主力です。
 船の好きな人には堪らないでしょうね。

 アメリカ本土に白砂の海岸は有りません。
 海岸は切立った崖が多いようです。

 マイアミの海岸でさえコンクリートの上に
 カリブの島から運んだ白砂を撒いたと云います。

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(アカプルコ クルーザーがいっぱいです)

 近くではメキシコのアカプルコ
 岩山に囲まれたビーチリゾートです。

 マイアミ同様、大変な数のクルーザーが係留して有りました。

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(カンクン アクティビティーがいっぱい有ります)

 カンクンに行って初めて広大な白砂の海岸に出会えます。
 カンクンは大変な数の若いアメリカ人のカップルで溢れていました。

 夜中12時を周っても
 ディスコ帰りの若者で通りは熱気でいっぱいでした。

 ディスコのお立ち台で超ミニで踊っている東洋人女性が居ました。
 良く見ると日本人です。

 彼氏居ないのかねー、一人で、恥かしい。 
 アッ僕もだ。 
 

  最近超人気のアルバ島は白砂の海岸があります。
 狭いプライベートビーチが数億円と聞きました。

 アメリカ人は白砂のビーチに飢えているのです。
 セブに来ると沢山有るのに!

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(アルバ島寄航時 船上で  ロイヤルカリビアン船旅)
              

 サンディエゴから
 ロイヤル・カリビアンの豪華客船に乗った時
 アメリカ人同士が話してました。

 「どっか良いとこ無いかねー」
 「ハワイはどうだい、去年行ったけど良かったよ。
 サンディエゴからも船が出ているよ」。

 ハワイはアメリカ人にも人気が有るようです。
 ハワイアンやフラダンスの文化も有ります。

 女性の受けもいいですね。
 ハワイ在住者ブログを見ると
 レストランも豪華とは言えないまでも
 小奇麗です。

 アメリカみたいですねー。
 そうですハワイはアメリカなのです。
 日本に一番近いアメリカのリゾートなのです。 

 
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(グアム島で20時間 飛行訓練をしました。13日間滞在)

 ではグアム島はアメリカでは無いのかと
 異論が出てくるでしょうね。

 うーん ウーン 皆さんは如何思いますか。
 あまり小さすぎて、三日で飽きる島で

 楽しみは夜のストリップしか無くて
 あれはアメリカ軍人の為の
 基地付属のビーチリゾートだと思いませんか。

 グアムに配属された
 若い独身の軍人は可哀相ですね。

 僕なら3ヶ月で病気になります。
 
 ハワイはアメリカなのです。
 だから物価も医療もアメリカです。

 日本にシッカリした経済基盤がなければ住むことが出来ません。
 コンドも高価です。
 だから喧嘩しない人種の日本人が集ると思います。

 
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(ハワイは遊ぶ処がいっぱいのアメリカ)
      

 風邪で寝込んだ娘を置いて
 私は一人でハワイ島へとオプショナルツアーに出かけました。

 残った娘は一人バナナを食べながら
 ホテルの窓から外を見て過したと言います。
 
 すごく心細かったらしいです。
 其の時日系人の60歳代の二世ガイドから電話が有ったと云います。

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(ホノルル  ホテルから見える風景 娘は風邪ひいてここを見てました)

 キャンセルしたナイトクルーズの確認の
 電話だったと思うのですが
 日系人の日本語が全く理解出来なかったと言います。

 日本語らしいとは言います。
 僕も前の日に会ったのですが、英語もトンデモナイ英語でした。

 現地語か日本語か英語か、完全にミックスされていて
 トンデモナイ言語文化でした。

 明治以来の古い日系人の存在が有り
 ロングステイの日系人コミュニティが有り?。

 観光客が居て、現地人が居て
 アメリカの社会で・・・とんでもなく複雑な社会ですね。

 各社会に交流は有るのでしょうか。

               
 
 ともかくハワイからは
 日本にもアメリカにも航空の便は相当数有るのですし
 地球を自由に移動できる方には
 中継点として便利な処だと思います。
 
yama 123
(白浜のビーチリゾートもあります  セブ島) 

 セブも国際空港まで30分~60分で行けますよ。
 香港直行便も有りますし、其の内上海直行便も出ると言います。

 成田直行便もあります。
 シンガポール コタキナバル直行便も有ります。

 空港内の治安もマニラに比べると各段に良好です。
 物価も日本の20パーセントです。とても良い処だと思うのですが。

PICT1035a
(セブ 中心部のコンド 自宅です)

 但し高級で安全なコンドミニアムを確保した上での
 ロングステイには良好ですが
 永住は考えない方が良いです。

 医療等考えると、 ハワイも良いかな。 
 でも日本人には日本が一番良い処です。


 最期は日本かな・・未だ先の話です・・・かなかな。

    
    それではまた後日


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 (ハワイ 綺麗ですね)  

宝石から削り出した ぺトラ遺跡 ヨルダン


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(エル・カズネ  ぺトラ遺跡のの顔です)
  
 アンマンを南に下り
 砂漠の良く整備されたハイウエーを数時間走ると
 アカバまで○○キロと云う道路標識に出会います。

 其処をやや行って右に曲がると
 道路は山地の中に入ります。

 そしてぺトラ観光のホテルの在る街に入りました。
 多分そうだったと思います。

 大分前の事なので記憶が不確かな所があります。

 この地帯は
 アカバ ぺトラ アンマン ダマスカス エルサレムを
 一緒にして考えるべき場所です。

 戸頃が御存知パレスチナの難題の為
 一度に周る事は出来ません。

 8年前最初にイスラエルを南北に縦断しました。
 エルサレムを南に下り
 エイラット(アカバの隣町)に行く途中

 砂漠の中に
 此処を左(東)に行くとぺトラ遺跡に行けると言う
 三叉路が有りました。

 何時か行ってみたい
 何時かと思い、4年前にぺトラに行けました。

 ぺトラはビー玉のような色模様をした岩を
 削りだした都市遺跡でした。

 可也広かったです。
 ダマスカスやエルサレムやアンマンの様な
 1800mの高地に在る都市では有りません。

 エルサレム等は山の頂上部に
 人間が岩や土を積み上げて築いた都市です。

 対してぺトラは偶然あった
 芸術的に美しい岩のワジ(枯れ谷)の中に
 削って造り出した都市遺跡です。

 寧ろ自然遺産のような世界遺産でした。

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 遺跡のゲイトを越え
 枯れ谷の巨大な岩の隙間を抜けていくと
 あのインディージョーンズ 最後の聖戦で有名なあのシーン

 岩の裂け目から
 宝石のようなエル・カズネ(宝物殿)が現れます。

 是がこの遺跡の最大のハイライトシーンです。
 鳥肌が立つような感動が有りました。

 此処から遺跡最深部のエドディルまで可也遠かったです。
 思っていたよりズット広い遺跡でした。

 遺跡の中にはレストランも有りました。
 値段は高いです。

 宿泊したホテルのバーでビールを注文すると
 一杯が2,000円近くした事を覚えています。

 皆さん文句言いながらも
 炎天で汗をかくものだから何杯も御代わりをしてました。

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(ぺトラ遺跡の御土産やさん。 たぶんベドウィン人)

 ヨルダンは観光で金銭トラブルがよく有ります。
 
 価格交渉で負けるとパレスチナ人は突然ウオーと叫び出します。
 エルサレムのタクシーでも料金トラブルが有りました。

 パレスチナの人は
 商売を奪い獲るか獲られるか
 殺すか殺されるかで考えて居るのではないでしょうか。

 価値を創り出すと云う考えが無いようです。
 ヨルダンは家屋も立派で豊かな国と云う印象を持ちました。

jordan232
(ヨルダン 首都アンマン 市内)

 ガイドに聞くと
 ヨルダンは石油の精製で利益が有ると言いましたが
 でも国土を縦断して見てみると
 工場・産業は全く何も有りません。

 此の人口500万人の王国に
 如何いうカラクリでお金が入って来るのか
 不思議で成りません。

 多分イスラエル パレスチナ問題をネタにした
 政治・経済的カラクリが有ると勘繰るのは僕だけでしょうか。
 獲るか獲られるかの。
                 
 以前に此の遺跡に来た事が有る人に拠ると
 此処にはベドウィンの人達が住んでいたと言います。

 今は御土産売りだけが居ます。
 此のベドウィンの人達も気性が粗いです。
 学校の教育は受けていない様に思いました。

 パレスチナを含めたこの地帯は
 世界で最も気性の粗い人達が住む処ではないでしょうか。

 90年前のアラビアのロレンスの世界
 其の侭だと云う気がしました。

 イスラエルも大変な場所に建国したものだと思います。

img935

 
 古代競技場跡を過ぎ
 エドディルまでの壮大な景色の岩山をテクテク歩き
 其の先の行止りの崖まで来ました。


 崖っぷち付近に腰をかけました。
 崖の向こうは500m程の高低差の有る谷に成って居ました。

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(エルサレムは右奥の方向だと教えてくれました。 御茶売りさん)

 お茶売りのお兄さんが遣って来ました。
 一緒に座って暫し世間話をしました。

 彼は21歳で子供が一人居ると云います。
 お父さんでした。

 谷の向こうの砂漠を越えると
 エルサレムが有るんだねと訊くと
 そうだ向こうの方角だと指差します。

 イスラエル旅行の時
 ぺトラは向こうだと指差した
 其の正反対の場所に来れました。

 ヤッとヤッと来れました。

 ぺトラの崖に座り
 ようやく僕のパレスチナの旅は完結しました。

 21歳のお父さんにお茶をもう一杯所望して
 ズートずーとずーと
 僕はエルサレムの方角を眺めていました。

             

 それではまた後日


   

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(エド ディル ぺトラ遺跡最深部にあります)

モロッコ人のように格好良く歩こう カサブランカ

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 (ホテルの窓から見えるカーサブランカ市内) 
 
 朝早く眼を醒まし、出発の仕度を終え、

 時間があったので
 窓のカーテンを開き
 ホテルの7階の部屋から出勤を急ぐ人達を見ていました。

 男性が圧倒的に多いのですが
 歩き方がとても格好良いのです。

 背筋をピンと伸ばし足をサッと前にだし
 踵から踏み込んでいく歩き方です。

 顎をひきお腹を引締め颯爽と歩くのです。
 若い男の子は全員がそうです。

 下を向いてトボトボ歩いたり
 ポケットに手を入れる輩は居ません。

 前を向いて真直ぐに歩いて行きます。
 だから速い、若々しい、清々しくてカッコイイのです。

 金が無くても
 空元気でも斯う云う歩き方をしていると
 運が開けてくると僕は思うのです。

 カサブランカは北アフリカ最大の商業都市です。
 前日着いて街を歩き回り
 街中のホテルのセキュリティーに道を聞いても
 笑顔で教えて呉れました。

 此の街の人が好きに成りました。

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(フェズ旧市街 丘の上に迷路のような街があります)
                
 世界一複雑なスーク旧市街と云う
 フェズの町を歩き楽しい一日を過しました。

 夜、ベリーダンスが見たくなりガイドに頼むと
 大学生のガイド助手を附けて呉れました。

 タクシーで夜のフェズの街を猛スピードで駆け抜けます。
 昼とは違う夜の顔を見せて呉れます。

 どの街も朝・昼・夜と違う顔を持っています。
 だから夜歩きは止められません。

 新市街の細い路地の入り口で車は停まりました。
 此処からレストランまで暗い路地を歩いていきます。

 幅4メートル程の石畳の道、両脇は三階建て程の石造りの壁です。
 歩くと革靴の底が石畳にあたる音で
 コンコンと反響音が響きます。

 26歳の大学生の助手と並び
 明かりが僅かな石畳の路地を颯爽と歩きました。

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(狭い路地 両脇の壁はかなり高い)

 向うからも2人組みが颯爽と歩いて来ました。
 スピードを落す事無く擦違いました。

          
 日本だと眼を飛ばした云々と
 因縁を尽けて揉める事があります。
 
 でも誇り高きイスラムの国では即殴り合いになります。

 日本のような睨み合いは無いのです。

 法律よりもイスラム道徳の世界、男の世界です。
 だからツマラナイ諍いは少ない、と僕は思います。

 レストランに着いてヤヤすると
 日本人の団体が入ってきてベリーダンスショウは始まりました。

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(名物 水売りのおじさん)

 大学生のガイド君は地理学が専攻で
 お金が無くなると休学して働き、貯まると復学する生活を続け
 今26歳だと云います。

 立派な大人です。
 日本の大学生とは違います。

 地理学だからスペインにも行ったのかと訊くと
 ビザが取れないと言います。

 隣の国ですが色々有るのですね。


   
 マラケシでは
 ファンタジアショウと云う騎馬戦争のショウを見ました。

 各20騎程が400m程離れて向かい合い
 空砲を撃ちながら擦違うのですが迫力有りました。

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(早朝の砂漠見物 真っ暗です。車の彼がドライバーです)

 カスバ地区では砂漠を4WDで走り朝日を見ました。
 ドライバーは砂漠の民のターバンを巻き
 鋭い眼だけを光らせ
 真っ暗で何も無い砂漠に4WDを走らせるのです。

 眼だけが異常で
 何人殺して来たのかと云う
 底冷えのする様な眼なのです。

 モロッコの民
 ベルベル人と云うのは砂漠の民なのですね。

 道理で歩き方からして一本筋が通っているハズです。

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(皮を染める工場 匂いがきつい)

 10日間でモロッコを一周しました。
 感想を言うと
 此の国はアトラス山脈を境に
 文明と非文明の狭間に存在しており

 革製品の加工等が有名な割には技術が低く
 金属加工も輸出商品に成る程の技術も有りません。

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(マラケシュ)

 欧州への出稼ぎも有りますが
 取分けて多いと云う事も有りません。

 アルジェリア・チュニジア・リビアは未だ行って居ませんが
 多分、北アフリカ、ベルベル人の文化は
 現代西欧文明のレベルに近づく事は当分無い

 恐らくインドのtake offの更に後に成ると僕は思いました。

 唯、尊敬すべきイスラムの道徳をしっかり持って居る民族で
 精神性も高く
 格好良い歩き方は羨ましいと思います。



            それではまた後日

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(御土産屋さん  金属具を売っています)

雪の日の リラの僧院 ブルガリア

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 3月のある雪の日にリラの僧院を訪れました。

 世界遺産のテレビ番組で紹介され
 番組音楽の素晴らしさと相俟って
 是非行ってみたい海外旅行先でした。

 吐く息が白くなり、少し融けかかった雪道を歩き
 入り口のゲイトをくぐるとリラの僧院が有りました。

 アーチ形の外廊に入りました。
 白と灰色の模様の独特な色合いのアーチです。

 でも期待していた物とは何処かが違います。

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 何処なんだろう
 敷地を隈なく歩き建物を検証してみました。

 リラの僧院本体は幾度も火災に遭った歴史があります。
 幾度も修復を重ねて来た建物です。
 白と灰色の模様は当然
 石組みで造られた模様だと当り前に考えていました。

 ローマ遺跡だけでなく中世のお城遺跡もそうです。
 石組みアーチです。

 でもリラの僧院のアーチに有る二色の模様は
 塗料で塗って有りました。

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 創立当初は如何だったのでしょうか。
 火災後の修復で費用が無いから塗っちゃったのでしょうか。
 ガッーックリきました。

 テレビ番組がよく出来すぎだったのでしょうね。
 庭に薄く積もった雪で、雪達磨を創って置いて来ました。
 僕の芸術作品誰か見て呉れたでしょうか。

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(私の雪ダルマ)
                   
 ブルガリアは黒海に面しトルコと国境を接する小さな国です。
 ソ連に占領された旧社会主義国でした。

 イスラム教とキリスト教の宗教的境の国でもあったのです。

 あらゆるボーダーが存在した国なのです。
 詳しくは知りませんが
 サゾヤ大変な歴史を持って居るのだろうと思います。

 私の感想では
 ブルガリアは一寸変わっては居るけれど
 完全な西洋の小さな国でした。

 今回一緒に周ったルーマニアよりも
 遙かに西よりの文化の国でした。

 小さな国は体制変革後の立ち直りも速いですね。
 それとヨーグルト
 日本のブルガリアヨーグルトと全く同じ味でした。

 御土産にミニチュアールの絵を買って来ました。
 イランの細密画のようでブルガリア人の心の繊細さが分ります。

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 黒海に面した街でドナウ河デルタのクルーズをしました。

 この街の労働者住宅は
 ロシア型の五階建て住宅が多かったです。

 そして自動車の排気ガスで空気に色が付いていました。
 薄紫色でした。
 街を一時間も歩くと眼が痛くなり、涙が出てくるのです。

 そんなに車は多くないのですが
 社会主義時代に製造した自動車は
 排気ガス対策が全く無かったのですね。 

 自由・平等・人権の実現の為に創造された社会主義は
 制御出来ない権力の集中の、罠にハマって
 自ら崩壊したのですね。

 排気ガスが象徴しています。

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 (ブルガリア美人 美人が多いです)
           
 今回は二国を歩きました。
 ヨーロッパの外れで
 ドラキュラ伝説とチャウシェスク独裁で有名なルーマニアと 
 宗教・体制の境目の国ブルガリアです。

 此の二国は全く違います。

 繊細なブルガリア人に対して
 ルーマニア人は大雑把でロシア的粗暴さが感じとれます。
 韓国人と日本人よりも違いは大きいと思いました。

 ルーマニアからの帰国の際
 ブカレストからウィーンを経由して成田に帰る事に成りました。

 団体チェックインでカウンターに並び
 荷物は成田まで直行だと云う事を
 チェックインのスタッフに念を押しました。

 すると突然・・トツゼン・・突然です。

 女性のカウンタースタッフがキェーッと
 居合い抜きの気合のような声を上げ
 「成田だって言ってるだろう!」と現地語で一声怒鳴ったのです。

 その余りの迫力と突然の予想もしていなかった出来事に
 周りに居た30人の日本人一同
 声を失ってしまいました。

 モスクワを始め
 旧ロシア系の国境では
 女性の係り官にはヨクアル事なのです。

 暗闇からシェパード犬に突然吼えられたようなショックでした。
 ルーマニアは未だ旧態のロシアだったのです。

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 ( ドナウ河デルタの町の勤労者住宅 ロシア的団地です)
    
 斯うしてリラの僧院をみて
 黒海沿岸を楽しみ
 アチコチの田舎の風景や地元の人たちと触合い
 10日間は過ぎて行きました。


 この地域は修道院以外、然したる文化の蓄積も無く、
 バルカン半島自体が文化の果てる処
 だったと云う事を確認しました。

 是だけでも大きな収穫だったと思います。

 50ヶ国以上旅した人の行く所でした。


 追加で一言 ブルガリアの女性は美人が多かったです。
 本当です。
 証拠は下の写真です。 

 どうです 綺麗でしょう


   それではまた後日


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(レストランで見つけたブルガリア美人)
  

台湾 大陸とワンセットな楽しみ方

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(観光の民俗舞踊)

 台湾を7日間で周る旅。
 都市から郊外に出て田舎を走ると
 奇妙な風景にぶつかります。

 小さな小屋のような御店のような処に
 ミニスカートの綺麗な御姉さんが立って居るのです。

 それも一箇所や二箇所ではアリマセン。
 幹線道路沿いに沢山有るのです。

 あれは何ですかとガイドに聞くと
 「ビンロウ椰子の噛みタバコ売り」だと言います。

 流石中国人商人、やる事は徹底していると思い
 一つ買って試してみました。

 石灰に何やら赤いものが混ぜてあり
 其れを口に入れて噛むのです。

 やってみました。
 チョークと甘くない木苺を噛んでいるようです。

 ややすると口の中が熱くなり、堪らず吐き出しました。

 口を水で濯いでも歯や口の中は真っ赤でした。
ややすると身体全体がポッポと熱く火照って来ました。  

 二度と遣るまいと心に決めました。 ペッペッ 

 台北で本場台湾エステに行って来ました。
 可也高かったと思うのは私がケチなせいでしょうか。
 でも内容は凄かったです。

 バスで数人で出かけました。
 やや待って入った部屋は
 マッサージ室と云うよりも手術室でした。

 オプションを色々付けたので
 
 3人の先生がマスクを着け
 3台の移動ランプを煌々と燈し
 毛穴からピンセットの鋭利なもので脂肪を
 一つ一つ掻き出しているのです。
 
 痛かったー。

 世界中でマッサージを受けましたが
 台湾のエステは世界一徹底していました。
 凄かった。   
 でも、もう行かない・・絶対に・・楽しくない!

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(故宮博物院)
         
 故宮博物院に行きました。
 これがメインテーマです。

 北京は3回行きました。
 紫禁城は最高です。
 壮大な本物の中国の王宮です。

 でも、何も無い。
 中国三千年の宝物・美術品は何も無いのです。
 
 モヌケのカラです。
 革命時に台湾に運ばれ
 ここ台北の故宮博物院に展示されているのです。

 「翠玉白菜」ミゴトでした。
 感動しました。
 
 でも博物院はじめ
 台湾で中国に模した壮大な建物・建築物は
 皆セメント造りでチャチな物でした。

 石を刻んだ建築物は王朝だから出来た物で
 近代ではもう造れません。

 大陸と比較してワンセットで見ると面白いですね。
 台湾・大陸 一勝一敗でした。


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(圓山大飯店の客室ベランダからの景色)

 世界三大豪華ホテルと評判の圓山大飯店に泊まりました。
 凄かったです。

 天井が高い。
 ロビーだけで無く、客室の天井も高いのです。
 
 だから浴室・トイレの天井も高く
 浴室の広さだけで
 並のホテルのセミスイートルーム位あるのです。

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(圓山大飯店の客室・天井が異状に高い)

 こんな広い浴室は
 カナダのバンフ・スプリング・フィールドの
 お城ホテルしか知りません。

 国威を賭けた紫禁城のようなホテルでした。

 でもでも運営が悪い。 
 幾ら建物が立派でも客をゴミ扱いするのはルール違反。

 幾ら安く泊まらせていても客は客。
 朝の朝食時
 そんな狭い処に追い遣らないで呉れ
 御願いだから。
 
gaido
 (ガイドさん 日本にも仕事で来てください)
                    
 7日間お世話して呉れた女性ガイドさん頭良かった。
 ケシテ美人では無いけれど
 
 御尻が大きくて良いお母さんに成れそうな
 愛嬌のある人でした。

 台湾人の観光客を日本へ連れて行くツアーを
 幾度も自分で企画して実施したと聞きました。

 日本のツアーだと
 添乗員は付けても実施は
 現地旅行社にマル投げしています。

 彼女はガイドブックで日本を調べ
 例えば仙台のお祭りを主題材にして台湾人観光客を集め
 日本で観光バスをチャーターして自分で添乗します。 

 日本で三日間一緒に周った観光バスの運転手に
 「中国語巧いね、何処で勉強したの?」と
 真顔で聞かれたと云います。

 其れほど日本語が巧く
 日本で何処にでも居るお姉さんでした。

 若し日本で隣に住んでいたら
 誰も台湾人だとは思わないでしょう。

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 台湾は旧日本の植民地でしたが、
 対日感情はとても良く
 それも楽しく旅行できた理由の一つです。

 1944年大戦末期に
 米軍が沖縄の外に対日攻略の上陸地として候補に挙げたのは
 台湾とフィリピンでした。

 主要な将軍達が台湾を上陸目標に挙げたのに対し
 マッカーサーだけがフィリピン上陸に固執し押し切ったと云います。

 台湾は上陸戦無しで米軍が通過した処です。

 結果レイテを始めフィリピンで日本軍人50万人
 フィリピン人100万人の戦死者を出しました。

 でも若しフィリピンを跳ばして
 台湾で上陸戦が行われていたら
 
 台湾在住の日本市民や日本に同調する台湾人を含めて
 想像を絶する被害があったでしょう。


 そうなれば今の様な良好な対日感情など
 存在しなかったと思うのです。

 歴史の偶然ですね。

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(蒋介石の軍服・意外に小さい)

 カクシテ楽しい7日間はアッと云う間に過ぎました。

 ガイドさんが
 日本で如何しても馴染めなかったのは
 旅館の大浴場だと言います。

 同性でも他人に裸を見せるのは堪えられないようです。

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(夜の市場・東南アジアの匂いです)

 僕はビンロウ椰子の噛みタバコが堪えられませんでした。

 台湾南端のオーラン岬まで行き
 夏の暑い日差しと草の匂い
 台中の街で嗅いだ臭豆腐の匂い
 夜店の雑踏、昔何処かでみた懐かしいアジアの田舎の風景

 ツアー同行者の笑顔
 忘れられない人生のひとコマに成りました。

 若しかしたら
 旗を持って添乗しているガイドさんに
 日本で会えるかも知れませんね。

      

    それではまた後日


     

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(台湾 最南端)

アカプルコ発 セブ行き ガリオン船の旅


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(アカプルコの港です)

 
 アカプルコ発 セブ行き ガリオン船の旅 

 今の時代のツァーでは有りません。
 スペインが未だフィリピンを植民地にしていた時代の船旅です。

 大変だったでしょうね。
 貿易風に乗って数ヶ月かけてセブまでは来ても
 復路は難しかったらしいです。

 1565年に太平洋大圏航路が発見され
 (日本近海まで北上し黒潮と偏西風で米国大陸に至り
 カリフォルニア海流でアカプルコに戻る)

 之によりアジア貿易の拠点として
 フィリピンの価値が定まったらしいです。

 スペインにとってのフィリピンの植民地的価値と云うのは
 メキシコ植民地との中継点というだけだったようです。

 フィリピン植民地経営の損益計算書は
 300年間赤字だったと云います。

 搾取出来る物は無かった。

 港としてのマニラ、セブの有用性と
 召使の労働力だけだったらしいです。

 今でもそうです。

 フィリピンは海外就労者の本国送金だけで成り立っている国です。

 労働力だけが売り物の国なのです。

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(ロイヤルカリビアンの8万トンの豪華客船・レジェンド オブ シーズ号)

 2年前アカプルコに行って来ました。
 米国サンディエゴからの8万トン豪華客船での船旅です。

マゼラン時代のガリオン船は100トン前後でした。
これで太平洋を横断したのです。

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(アカプルコ博物館にあるマリア像)

 気象予報も無い時代で、命懸けですね。

 アカプルコのスペイン風要塞の中に
 アカプルコ歴史博物館が有りました。

 其処にはガリオン船の模型と一緒に
 上掲のマリア像が展示して有りました。

 是は僕達がセブやネグロス島でよく見かけるものです。
 メキシコとフィリピン
 交通も文化も繋がっていたのですね。


   img372
  (アカプルコ博物館の外観・旧アカプルコの要塞)

   アカプルコ博物館の動画をyoutubeにアップしました。

  動画のなかに当時のガリオン船の模型がでてきます。




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(セブ島・サンペドロ要塞のインディオの頭部)

 上の写真はセブ島のサンペドロ要塞の
 チケット売り場に展示してある
 インディオの頭部のオブジェです。

 メキシコシティーに行かれた事が有る方なら分るでしょうが
 これはメキシコの博物館なら何処にでもある

 メキシコの特徴的オブジェです。

メキシコの物は数メートル有ります。
セブの物は50センチ程です。

ヤッパリ繋がっていたのですね。

 ピサヤ語やイロンガ語にもスペイン語が沢山混ざっています。
 現地の人が知らないだけです。

 アカプルコの要塞やマニラのイントラムロス程の規模は無いですが
 セブのサンペドロ要塞は
 キューバの要塞と同じ位の大きさが有ります。

 外観も内部もソックリです。

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(セブ島・サンペドロ要塞)
            
 日本は江戸時代に鎖国をしていた為
 スペインの影響を殆んど受けていません。

 セブのサントニィーニョ教会には
 スペイン来寇の絵が回廊に多数架けられて居ます。

 スペイン艦隊が来て村落が多数焼かれている横で
 宣教師による洗礼が行なわれている絵が数枚有りました。

 宣教師の身体を矢が透り抜けても
 不死身の宣教師は笑っている絵も有ります。

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(セブ島・サントニーニョ教会にあるスペイン時代の絵)

 フィリピンの人達は
 此の絵に義憤や疑問を感じないのでしょうか。

 フィリピンやアジアの歴史を見ると
 鎖国をしてキリスト教を排斥した日本の鎖国政策は
 間違いでは無かったと僕は思います。

  
 序でに
 フィリピンの名前の基になった
 スペイン皇太子フェリペ2世の顔御存知ですか。

 2年前ニューヨークのメトロポリタン美術館に行った時
 一階に胸像が展示して有りました。

 決して御利口な顔では有りませんでした。
 カメラが無かったので写せませんでした。

 先日検索中に
 その胸像の写真を掲載したブログを発見しました。

 写真権利者許可を頂きましたので掲示します。

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(ニューヨーク メトロポリタン美術館 フェリペ2世像)
 
  フィリピン人でもフェリペ2世の顔を知らない人が多いらしいので
 此の写真は貴重だと思います。

 セブ市は今、人口72万人
 マンダウエー市 ラプラプ市タリサイ市等6市を合わせた
 メトロセブ圏で130万人
 セブ本島で300万人

 セブ州で335万人の人口(2000年調べ)だと云います。

 マゼランも500年後
 セブがこんなに大きく成るとは考えて居なかったでしょうね。

 僕は今
 セブと云う歴史的にとても面白い処に住んでいます。

 纏まらないブログでしたが
 最後にセブ・サントニーニョ教会の
 スペインと宣教師による
 セブ襲撃 征服の絵を載せて終わりにします。

 左側で燃えているのがセブ原住民の部落です。

 手前には原住民の死体が転がっています。

      

P1010456


 それではまた後日


park tower 防災訓練 セブ フィリピン

PICT1926

  
 コンドミニアム パークタワーで防災訓練が有りました。

 フィリピンは銃器・火薬が犯罪に使われる国。
 防災訓練も爆弾テロを警戒したプログラムが有ります。

 予定の朝9時30分
 地下駐車場入り口で大量の爆竹を炸裂させ
 バンバン ドッピューン ボカボカボカ。

 驚いて窓を開けた住人に対し
 「早く降りてきて訓練に参加して下さい!」と呼びかけ
 階段を使い住人が降りてきました。

PICT1934
(爆弾を予想した訓練)

 フィリピン人は訓練なんかカッタルクテしません。
 嫌々降りてきたのはフィリピン人。

 時間前に集ったのは欧米系白人 韓国人 
 日本人は僕一人でした。

 此処は高級コンドミニアムなので住人の7割はハウスメイドです。
 サーバント多数が参加しました。

 此処アヤラ地区は
 アヤラセンター、シティースポーツクラブ、パークタワーを含め
 セブホールディングが開発した商業・ビジネス地区です。

 防災訓練はセブホールディングの車両・関係者多数が参加しました。

PICT1951
(訓練スタッフ)

 責任者が訓練の説明を始めるのですが
 言葉は英語 タガログ語 ピサヤ語で三回繰り返すのです。

 結局、英語とピサヤ語に落ち着きました。

 ハウスメイドは英語が出来ません。
 ミンダナオ島から来ている娘が多いですから。

 フィリピン複雑ですね!。

PICT1916
                    
 消火器を数台使いメイドさんに消火させます。
 メイドさんは楽しそうです。

 am10時に成るとスタッフは無料の食事を始めました。
 何か楽しみがないとフィリピン人働かないねー。
 外国人の方が真剣に参加しています。

 如何いう訳か最近フィリピンは大火が続いています。
 マニラもですがセブでも毎週大火事が有ります。

 不法占拠者地区が多い為
 密集した木造の家屋が多いのです。
 
 家屋と云う言葉では表現出来ない家です。
 トタンとボロ材木とベニヤと椰子の葉を編んだ壁パネルと
 一個5円の安ブロックで作った寝床だと思って下さい。

 天井は卵の空ケースや
 新聞紙にビニールを合わせた物だったりします。

 当然、路地は1m幅程の処もあり、車は入れません。

PICT1922

 電気は盗電だったり超タコ足の配線です。
 水道もタコ足です。

 此処に都市人口の80%の人が暮らしています。
 セブでもマニラでも。

 
 フィリピンの田舎は広々として水牛が歩き
 空気はきれいで椰子の木が繁り
 海は青く、山は緑で、人は優しく

 時間がゆっくりと流れています。

 僕達、外国人が好きなのは斯ういうフィリピンです。

 でも其処で生活する人達は子供の教育 車やガソリンの購入
 電気や電話のある生活に憧れ
 現金が必要なのです。

 病気に成っても医者代も無い生活は厭なのです。
 
 現金 現金 現金、
 フィリピンには現金さえあれば
 全ての近代的 便利な商品が溢れています。

 テレビのコマーシャルは優雅な生活を流し続けています。
 現金 現金 現金さえあれば。

PICT1940

 フィリピンと云う国は
 歴史の発展段階で言うと
 封建制まで到達していない「形を変えた奴隷制社会の段階」なのです。

 だから腎臓が売られているのです。
 学歴と能力がある人は外国に働きに行けます。
 彼等はエリートです。

 でも人間の輸出です。

 都会の親戚を頼って
 マニラ セブの都会に働きに来た人達の住む処はそうです。
 スクワッターエリア(不法占拠者地区)なのです。

 天国の田舎から地獄の都会へ。

 日本でも同じかも知れませんね。
 世界中そうです。

 そしてフィリピンでは大火事があり
 多数の子供達が逃げ遅れて焼け死ぬ!。

 紙と草とベニヤで出来た密集地帯の中で!

                 
 
 何かシテアゲタイと思っても、其処に手を入れたら、大変な事に成るのです。

 
 本当に大変な事に成ります。
 フィリピンはとても歴史の浅い国です。

 自分達の国は自分達で起していく
 克己心が、未だ育って無い人達には
 時間だけが必要なのだと僕は思います。

 防災訓練から何でコンナ暗い話に成ったのでしょうね。
 最近の大火事からでした。

 朝の爆竹から始まった防災訓練は一時間程で無事終りました。
 
 防災訓練楽しかったです。
 明日は何の訓練遣りましょうか。

 今日もセブの空は青く晴渡っています。
 三月・四月は一番暑い季節です。
 ジリジリ焼付く太陽の下で一時間

 今日も日焼けしてしまいました。

 金は無くともセブアノの顔は明るい
 太陽のような笑顔、今日の蒼空とおなじです。


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            それではまた後日


真岡郵便局跡を訪ねて エスタ・スターレイ・ポチタ サハリン

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(旧真岡郵便局跡から港の方向を望む)
  

 旧日本領土サハリン
 稚内港からフェリーを使いコルサコフに渡りました。

 日本に一番近い外国ロシアです。
 津軽海峡とほぼ同じ距離があります。

 州都ユジノサハリンスクに宿を取り7日間滞在しました。
 ホテルの傍にはガガーリン公園があり
 滞在期間中、幾度か散歩を楽しみました。

 人口に比べると可也大きな公園です。

 舗装された区域は余り無く
 柔らかい土の感触を足の裏に感じて歩きました。

 大人の娯楽が余り無いロシアでは
 子供と一緒に家族で楽しめる公園に
 国の予算が使われているようです。

 公園内には規模は小さいですが子供用のゴンドラ等多数ありました。

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(コルサコフの港)

 港町コルサコフでも丘陵の上には市役所があり
 其処から南北に並木道が走り
 両脇には市民が利用できる御店が並んでいました。

 緑に茂る並木の下を
 乳母車に赤ちゃんを載せた若い綺麗なお母さん達が歩き。

 笑いながら世間話を交わしている姿は
 何処の国でも同じで清々しいなあと思いました。

 海側の低地には工場地帯があり
 丘陵の上には5階建て程のアパート群が並びます。

 ニューヨーク・マンハッタンのハドソン河岸のような高さです。
                 
 コルサコフからユジノサハリンスクに返る途中
 30㌔程の道のりですが、起伏の多い地形でした。

 大きな坂を降り丘を登り上がった処で警察に停められました。

 警察官は2人で
 一人は坂を降って来る最高速度の地点でスピードガンで速度を測り
 他の一人は一台於きに車を停車させます。

 勿論全車がスピードオーバーです。
 そして罰則金をその場で払わさせるのです。

 ナント領収証はありません。
 見ていると嫌々ながらも、警察に表立って反抗する人は居ません。

 運転手に聞くと『これがロシアスタイルだよ』と言いました。
 マフィア大国ロシアでは警察も最大のマフィアの一つです。

 罰則金が誰の懐に入るのか、興味深いところです。

yuji
 
 ユジノサハリンスクで
 一番大きな建物はサハリンエナジー社の建物です。

 10階建て程で
 4ha程の敷地に真新しい巨大なビルがそびえ立っていました。

 映画館は数軒あり
 ハリウットの最新作もロシア語吹き替えでやっていました。

 入場料はロシアとしては可也高かった様に記憶しています。
 多分10ドル位です。

 それでも映画館は半分以上の客入りです。

 デパートも数軒あるのですが
 広い敷地のなかに道を走らせ
 小屋のようなブースを30軒ほど造り
 野外マーケットのような商業スペースがあるのが特徴です。

 鉄道駅の西側には可也大きな食料品屋外市場がありました。
 其の近くには衣料品の屋外市場もあります。

 経営者には朝鮮半島出身者が多かったです。

 
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(コルサコフ市役所・レーニン像があるのは中央アジアとロシアでも極東だけです)

         
 ガガーリン公園を散策している時
 75歳だと云う老紳士に会いました。

 日本人だとばかり思っていたのですが
 朝鮮半島出身者だと言いました。
 日本語は完璧です。

 彼は戦後サハリンに残り
 新聞記者として生計を立て
 ロシアジャーナリスト協会の正会員にまで成ったと言いました。

 退職する頃「日本の援助?」で朝鮮半島出身者の
 韓国への帰国支援プログラムに応募し
 
 今は韓国で暮らし
 息子達が暮すサハリンに
 年に2回程里帰りするのだと言っていました。

 北朝鮮関係の仕事もあり今は悠々自適の生活のようです。

 何故、戦後朝鮮人は
 直ぐに帰国出来なかったのか聞いてみました。

 彼が言うには朝鮮動乱が起き
 その後の紛争が続くなかで、ロシア政府は

 統一後(北朝鮮への統一)の朝鮮へ朝鮮人を送還する方針を持ち
 今に至ってしまったと言いました。

 彼にはその後ユジノサハリンスク市内で何度か邂逅し
 彼も僕もお互いを少し警戒していたので
 会釈以上の関係は出来ませんでした。
                 
 さて本題の真岡郵便局跡を訪ねる旅です。

img230
(宿泊したホテル ガガーリン公園の近くにあります)

 ホルムスクに出発する当日の朝
 ホテルの朝食レストランで日本人を見かけました。

 40代のポッチャリ顔の彼女は
 日本からの団体を率いて来たガイドでした。

 朝の忙しい時間で誠に申訳ないとは思ったのですが
 真岡郵便局の場所を聞いてみました。


 以前行ったのは大分前の事で
 出店が沢山出ていて分かり難い場所だったと言います。

 此れから探しに行くのなら、ロシア語を教えてあげると言いました。

 エスタ・スターレイ・ポチタ 
 (古い郵便局は何処ですか?)と云う言葉でした。

 エスタは何処、スターレイは古い、ポチタは郵便局です。
 但し僕の記憶に間違いが無ければですが。

 笑顔の可愛い北海道弁のガイドさん有難う御座いました。

 かくしてチャーターした車で
 ホルムスクまで1時間のドライブをしました。

 ユジノサハリンスクから海岸部のホルムスクまで
 緩い峠を走り貫けるのですが
 峠にかかった頃から霧が出始め雲の中を走るような感じでした。

 途中、熊笹峠辺りから海岸部が覗けるように成りました。
 辺りに家は無く、住宅はホルムスクの町に固まって存在しました。

 コルサコフと同じく此処も丘陵の町です。
 
 海岸部に港湾荷上げ関係の広大な施設が展開し
 フェリーターミナルが有り
 舗装道が丘の上にと続いていました。

img257
(真岡郵便局跡地)

 現郵便局のある丘の上で幾人かに聞いてみました。
 30分ほど聞き廻って分かった事は郵便局は何度か移転しており
 一つは数十年前火災で焼失したとの事でした。

 その郵便局跡は丘の下にあると云います。

 車で丘を降り海岸部の小さな花屋さんに聞きました。
 花屋さんは傍の建物を指差しました。
 上掲写真・9階建ての建物がそうです。

 フェリーターミナルから北に300mの位置に有りました。
 直ぐに分ります。

 火災の後、此のビルが建ち一階は銀行が入っています。
 前庭は200坪程ありました。

 此の庭が真岡郵便局跡なのです。

 此の庭から海側をみると頭掲の写真になります。
 ガイドに聞くと慰霊の碑では無いと云います。

 日本人から見ると意味のある真岡郵便局跡も
 ロシア人には全く・・マッタク関心が無い事なのです。

 ロシア軍が自らの血を流し
 日本軍国主義者から奪い返した領土
 それがサハリン、遙か昔の事なのです。

 日本時代と云う言葉を多々聴きました。
 軍事力で他国・他民族の土地を奪い取っていく事を
 軍国主義と言います。

 日本は全く其の通りでした。

img262
(熊笹峠にある対日戦勝記念碑)

 でもロシアが1945年以後やった事も全くの軍国主義なのです。

 ただ世界社会主義革命という美名で隠していただけなのです。

 此の事をロシアの人達は分っていませんし
 分ろうともしません。

 唯、現在の経済的危機の現実だけは認識しています。

 やがてロシア経済も回復する時が来るでしょう。
 其の時世界に如何いう影響を与えるのか危惧するところです。

 僕はロシアの事を語ると熱く成り過ぎるようです。この位で。

 エスタ・スターレイ・ポチタ 如何でしたか。
 日本に一番近いヨーロッパ ロシア。

 もっと簡単に安価で行けるようになれば
 相互理解は進むかと思うのですが。


 一見の価値は有ります。
 夏にパックツァーが有ると思います。
 貴方も如何でしょうか。

 
 エスタ・スターレイ・ポチタと言ってみてください。
 
          

   それではまた後日


    

 
 真岡郵便局を訪ねたビデオをyoutubeにupしました。御参考にして下さい。


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(ユジノサハリンスク駅前公園に建つレーニン像)

続きを読む

小便少女さん を訪ね迷って 1時間 ブリュッセル


bel086
 (御存知 小便小僧)     
 
 ベルギー・ブリュッセルの世界遺産グランプラス
 其の脇道を200m程入ると
 コレマタ超有名な「小便小僧」の噴水が有ります。

 観光客は必ず此処で写真を撮り
 小便小僧さんて小さいんだねーって感想と溜息を漏らします。

 小僧自身は身長50㎝程しか有りません。

 グランプラス広場の博物館「王の家」には
 各国から贈られた小便小僧の衣装が展示されています。

 日本からは桃太郎の衣装が寄贈されて居りました。

 小便小僧は人気者
 世界で知らない人が居ない程
 陽の当たる処に有る存在です。


 其の経済効果は幾千億円か量り知れません。

belbel0001
(世界一美しい広場と云われる グランプラス)

 では便乗したとしか思えないのですが
 ブリュッセルに《小便少女》の像が有るのを御存知ですか。

 ガイドブック片手に捜して参りました。

 グランプラスを挟んで小便小僧と反対側の方角で
 距離にして500m程の所でした。

 石造りの建物が立込んでいて
 非常に判り難い場所に有りました。
 レストラン街の真ん中でした。

 5~6箇所のレストランのギャルソンに聞きました。
 
 教えては呉れるのですが
 道が迷路のようになり角が多すぎて
 僕が迷わない様にするのが精一杯でした。

 ベルギー人は英語で聞いてもキチンと応えて呉れます。
 フランス人とは違います。
 「statue of little girl」を会話に入れて聞くと判って呉れました。

       
 小便少女は行き止まりの脇道の奥
 右側の壁の中に有りました。

 薄暗い路地で、治安悪そうで
 湿気があって、汚い所でした。

 夜6時まで公開されていると
 ガイドブックには書いて有りましたが

 僕が行った5時には
 既に鉄格子と南京錠が掛けられて居りました。

 人通りの死角になる場所なので
 終日鉄格子が掛けられて居るのかも知れません。

bel096
(小便少女)

 鉄格子の間から撮った写真は全体が巧く撮れなくて
 変な写真になり誠に申訳有りません。

 僕の趣味では無いので念の為!。


 写真に見る通り噴水に為っている様なのですが
 
 男の子のアッケラカンとした微笑ましい小便小僧と比較して
 女の子版はもう少し展示方法も含めて
 工夫して欲しかったなーと残念に思いました。

 小便少女を探し当ててホッとしてグランプラスまで戻る事にしました。

 ブリュッセルはパリよりも小さく纏まって居り
 ズット垢抜けした街です。

 石畳も綺麗で不思議に、夜撮った写真が
 スコブル綺麗に写っていました。

bel110
(ブリュッセル裏道の夜景)

 町を挙げて
 夜景の有り方のプランを持っているのかも知れませんね。

 話が跳びますが
 札幌の大通り公園の冬の夜景も計算されていて綺麗ですよ。
 是非見に行って下さい。

 ベルギーとオランダを6日間程で歩いたツアーでした。
 小さい国は人の心も繊細で親切で
 存在理由としての強い個性も有って楽しい旅行でした。

 1月末の安い時期でしたが北海道よりは暖かく
 雪も無く
 人も少なく人気観光地ブルージュは
 人が写っていない風景だけの写真が撮れラッキィでした。

 此の時撮った夜景の写真は
 私のパソコンのデスクトップにも設定してあり
 今でも楽しんでいます。
     

     それではまた後日
      


bel 100
(ブリュッセル裏道の夜景)

国際空港 御馬鹿ランキング 貴方は何処を選びますか

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(モスクワ空港)
    

 旅行好きの旅人が最初に立入るのが国際空港。

 僕達は全くの無権利状態です。
 裸足にして歩かされ
 睨み付けられて質問され拒否すれば帰される。

 理由は疑わしいから。何の・・? 
 テロリスト?

 空からの入国は
 人の目が有るから命まで奪われる事は無いけれど
 陸地で国境通過するバックパッカーは大変だろうなと同情します。

 金も財産も人権も奪い放題
 其れが国境と云う物です。
 
 驚いた経験有りませんか。

 日本はそんな事無い
 そう日本は特別です。稀なんです。
 でも外国人のレーンに並んで外国人扱いされた事有りますか。

 特権を持った人が無権利者に対した時
 必ず驕りは出ますよ。ジーザスでも無い限り。

 さてさて被虐を楽しむ私captainyamaにとって
 空港は実に面白い処です。

 国際空港が御馬鹿だと云う事は其の国が
 取分けガバメントが御馬鹿だと言う事です。

 其れが放置されて居る事は
 国民に自省能力が欠けている証拠です。

 第一印象は怖いですよ。
 家は貧しくとも礼節を知る家族は尊敬されます。
 逆も然りです。

 米国好きの読者には誠に申訳有りませんが
 米国入出国時に提出するI-94Wの質問事項
 御馬鹿だと思いませんか。


 あれを放置しているのだから米国人は自省能力が無い
 カウボーイだと言われても
 仕方無いと思いますが如何でしょうか。

 反論されたら直ぐ謝ります。

moscow1
(お馬鹿空港・第一位モスクワ空港)
          
 
 さて御馬鹿ランキング総合第一位はロシア
 モスクワ空港である事は異論が無い所だと思います。
 横綱です。

 空港が薄暗いと云う事では無く
 運営しているロシア人職員がトンデモナイと云う事と
 そう言われて居る事に気が付いて居ない事です。

 気が付いて居ないのです。
 だから之からもズッと横綱でしょう。

 如何トンデモナイか、本が一冊書けます。
 添乗員にでもお聞き下さい。

010721023

 第三位は南アフリカ ヨハネスブルク空港。

 ヨハネスブルグ空港で
 付加価値税の還付を受ける為にレーンに並びました。

 書類の不備を指摘され怒鳴られて返されました。
 こういう時、僕は動きません。


 何が不備なのか何処に行くべきか、それは何処に有るのか。

 10分でも彼らの仕事を全部止めさせても動きません。

 最後は睨みあいになります。
 指示された場所を係り官に案内させ
 また戻ってきました。

 先程の経緯があるので先頭に行くと
 最後尾に行くようにゴミのように怒鳴られました。

 そして順番が来ました。
 彼らは英語ではなく、オランダ語の変化した現地語で
 仲間同士で僕の事を罵っています。

 目が腐っているって分かりますか。

 還付と一緒に現地貨幣とドルの交換を依頼しました。
 彼が出してきた計算書は明らかに50ドル程違います。

 アアーッこうやって誤魔化すんだ!。 
 面白い! 興味シンシンで見て居ました。
 彼は最後にニャッと笑い

 シテヤッタリと得意そうでした。

 アフリカに行くと何時も思うのですが
 現地人のレベルは動物のレベルと同じ
 選挙も民主主義も先進国の抱く幻想
 ゴリラに背広を着せている様な物です。

 だから援助をすると銃器に消え
 何百万人も殺しあうのです。
 槍と弓矢では何百万人も殺せないと思うのですが。

manilaairport
               

 第二位がフィリピンマニラ国際空港。

 国際線は出発3時間前に空港到着する事を要求されます。
 乗客の安全の為にシッカリ検査しているのでしょうか。
 実際に行ってみました。

 搭乗客は炎天下空港の外でジッと待たされていました。
 
 1時間程して空港入り口まで来ると
 4箇所ある入り口は2箇所閉鎖され
 各入り口2台ある検査機械は1台しか稼動していませんでした。

 検査体制を強化しているポーズだけをとり
 搭乗客に不便を強い
 相変わらず外国人から金品を掠め取ろうとする姿勢は
 変わっていません。

 空港内では内部関係者が絡んだ強盗事件が頻発しています。
 
 警備員はやたら外国人にボディーチェックし
 身体に付けた金品を発見すると
 公開を迫り

 そして最後は満面の笑みでメリークリスマス。

 世界的に有名な
 マニラ国際空港の「真夏のメリークリスマス」です。

 是正しようと云う動きはフィリピン国内にも有るのですが
 昨年は責任者が通勤途中
 車ごと、機関銃で撃ち殺されました。
 
 勿論当然犯人は逮捕されていません。

 世界中にフィリピン人労働者を派遣する国で
 国家の顔である首都の国際空港で
 恥かしくなくこう云う事が続いている事は
 僕たちには理解出来ない事です。

 将に魔の巣マニラ国際空港 
 堂々世界第二位の
 ワースト空港に僕はランクインさせたのですが

 皆さんは如何思いますか。

 フィリピンは世界から馬鹿にされても致し方ないですね。


 国際空港、国家の顔です。
 一番経費の掛からない、一番効果的な外交大使館。

 国の安全と外国の尊敬を勝ち得る為には
 国連職員より重要な仕事です。



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 日本の空港職員のみなさん頑張ってください。

        それではまた後日


      





セブ ミツミ電機上空1500f 

flight003
(愛機 RPC2706 これで200時間飛びました)

 紺碧の空、白い雲、
 椰子の木が風にそよぐ南の島セブ。

 野焼きの煙りが南に棚引くセブ島の上空1500フィート。

 セブマクタン国際空港を離陸して
 レイテ島タクロバンに向かいます。

 僕は有視界飛行のパイロットです。
 国際空港であるマクタンはIFRが主体の空港です。

 僕達VFRは隅に追い遣られ肩身の狭い飛行をしています。
 セスナの操縦 興味有りますか。

 沢山の航空機が集る空港周辺は
 空港管制塔の管理下に有ります。

 セブは空港から半径15海里(27㌔)が管制圏です。
 有視界飛行は高度1500f(450m)が上限です。

 Runway04を離陸した場合
 
 有視界の航空機は
 海岸沿いの5㌔幅程の狭い廊下のような区域を
 北に向かって飛ぶ事になります。

 東の海上は全て
 計器飛行の大型機の離着陸経路に指定されて居るのです。

Still0406_00004
(珊瑚礁の島々 ボホール島地域)

  皆さんがセブマクタン空港に離着陸する空域には
 僕達小型機は立入り出来ないのです。

 どうぞ御安心を。

 フィリピンでは小型機の夜間飛行も禁じられています。
 大型機に衝突する事は有りませんので
 此れも御安心下さい。


 しかしサテ! 
 隅の狭い空域に追い遣られた僕達小型機は
 心穏やかでは有りません。

  遅いとは言え飛行機、時速200㌔
 対向機も200㌔
 合計時速400㌔で擦違う事に成ります。

 同高度で100mの距離なら完全にニアミスです。
 怖ろしいー!。 

 100mの高度差なら楽勝です。

 処が此の空域、高度差100mは獲れないのです。

 だからパイロットは
 他機と管制塔との無線交信を
 耳を澄ませてジット聞いているのです。

 誰が何処を飛んでいるか
 近ければ事前に回避操作をします
 死にたくなければ。

 日本のように
 管制官がレーダーで親切に教えては呉れません。
 腕の悪い奴は死にます。
 次は御前だ!  

 否定出来ないから怖ろしい!
 
 レーダーは有る事に成って居ますが
 動いている気配は有りません・・? 

 此処はフィリピンです。 
 

 怖いですよーーん!

PICT1245-y
(セブの碧い空) 


 空港管制圏は15NM
 
 ダナオ市上空で終ります。
 此処が1500f(450m) 高度制限の始点と終点です。

 マクタンに着陸する有視界飛行の小型機は
 徐々に高度を落し
 ダナオ市上空で1500fにして
 管制塔に着陸要請の無線連絡を入れます。

 出発機も1500fで管制塔に離空域圏の連絡します。
 同高度1500フィート。
 同時刻の無線連絡なら相手機は目の前です。

 此処が神経の集中の為所。
 敵はどこだー! です。

 此の地点が何を隠そう
 セブ ミツミ電機上空1500fなのです。 

 ミツミ電機の皆さん御安心下さい。
 衝突してもお宅の上には落ちません。 

 どうして ?・・・ウーン 何となく!

PICT1587
(セブ市の花火大会)

 此処でミツミ電機を知らない人に御説明しますと

 此の会社は日本では知られて居ませんが
 セブでは従業員2万人の超大型企業。

 ダナオ市の経済は此の一社で支えています。
 セブの花火大会に大型の協賛をしたり。

 多分、工場長はセブ州知事より尊敬されて居るでしょう。
 日本企業です。

 此の巨大企業の巨大工場の
 巨大屋根が
 天気の悪い日でも上空1500fでハッキリと確認出来るのです。

 御分かりに成りましたか
 セブマクタン国際空港の航空事情。

 カクシテ僕のセスナ172は
 ダナオ市上空から進路を東北東に取り

 サンシャイン・ビーチ・リゾートの上空を過ぎ
 2500fに高度を上げて
 レイテ島タクロバンに向って飛行を続けるのでした。

 ミツミ電機の皆さん脅かして御免なさい、安心して下さい。

                  それではまた後日
 


    

 セブマクタン国際空港からの離陸フライト動画を
 youtubeでupしました。

 機は離陸後南に向かっていますが
 ミツミ電機ダナオ工場は反対の北方向になります。



PICT1200
(セブビジネスパーク中心地)

綺麗なジャパユキさんは御好きですか ウラジオストーク

img098
(ウラジオストーク空港)

 「唐ゆきさん」を捩った言葉「ジャパユキさん」
 国際収支が貧弱だと
 国民は外国に出稼ぎに往かなければ成りません。

 それが女性だと水商売
 懸命に言葉を覚えて働き家族に送金する姿は
 頑張れよと言ってあげたくなります。

 僕が住んで居るフィリピン セブからも
 日本に働きに行くジャパユキさんは居ます。

 月に1000ドルの送金はフィリピンでは大変な金額
 家族 親戚が集って来て20人は養っていけるでしょう。

 美人でスタイルが良くて健康でなければ
 オーデションを勝ち抜いて行けません。

 彼女達は特別なのです。
 其れでもジャパユキさんは後ろ指を射されます。

 其れはフィリピンの水商売(カラオケ・バーetc)では
 売春が常にあるからです。
 日本のフィリピンパブは売春がないと言っても誰も信じません。

manila3
(マニラ空港)

 マニラ空港では毎日の様に
 ジャパユキさんの出国、帰国の風景に出会います。

 お母さん・妹・弟・従兄弟・叔母さん
 家族全部で彼女達を出迎えに来ます。

 御土産をダンボール一杯にして家族に錦を飾り
 マニラの郊外の故郷へと消えて行きます。

 しかし   ケバイ。
 真っ赤なショートパンツに臍だしルック
 何処でコンナ服装センスを身に付けたのか? 
 
 誰が見ても一目瞭然
 アメリカなら街娼と言われてもショウガナイ格好。

 フィリピン映画でも
 登場するジャパユキさんは派手派手ファッションで
 日本のカッパ海老煎を御土産に持って登場して来ます。

 やっぱり派手に見えるんですねー。

 但し今は日本政府の政策転換で
 出稼ぎは水商売から看護婦招請に代わった為
 盛時の10分の1に激減したそうです。

img096
 (ウラジオストーク空港)              

 其れではフィリピン以外の国

 例えばロシア人の
 水商売で働くジャパユキさんは如何なのでしょうか。

 其処で行って来ましたウラジオストーク。
 新潟空港から直行便が有りました。

 出発時刻の2時間前から
 三々五々に集って来たロシア人女性 

 美人 綺麗 スタイル抜群 金髪 ゴージャス  そして派手! 
 派手 はで ハデ 派手  一目瞭然水商売
 美人だから余計目立つ
 そして定番ダンボールの御土産。

 小さな飛行機に20人以上
 ウラジオストークに着くと
 これまた小さなイミグレーションルームは
 彼女達の勢いに占領されました。

 入管の女性職員は明らかな蔑視の視線を送っていました。

 荷物は隅々まで調べられ
 日本人形のケースの裏まで分解して調べられていました。

 だけど凄まじい勢い・オーラ 水商売の匂い 臍だしルック
 彼女達も負けてません。

img084
(写真はウラジオストーク鉄道駅   空港ではありません)

 1時間程して漸く関門突破
 空港の待合室に入ってきました。

 僕はベンチに座って観ていると
 出迎えに現れたのは2mもあるような男
 ハンサム カッコイイ 強そう 恐そうな若い男。

 出迎えのキッスをすると彼女を抱えて
 空港から出て行きました。

 次のジャパユキさんが出て来ると
 出迎えはまたまた強そうな男
 お母さんの姿は有りません。

 次も次もその次も男 男 オトコ 男
 其れも屈強な男。
 出迎えのキッス 出迎えは全部が男でした。
    
 フィリピーナと恋に落ちマニラに通うと
 親戚一堂にタカラレタと云う話はヨク聞きます。

 しかし、しかしですよ
 ロシア美人と恋に落ち
 モスクワやウラジオストークに来てみたら
 マフィアの恐いお兄さんが待ち受けて居る。

 オー恐ろしい 怖ろしい おそろしい。
 其の先は如何なるのか
 生きて帰って来た人がいたら
 是非ブログに書いて下さい。お願いします。
         


           それではまた後日
          


img094
(ウラジオストーク市内)

夜のクアラルンプール オカマ地帯は怖かった

img176

 (クアラランプールのガイドさん)

 アジアのムスリム国家マレーシア 
 巨大都市クアラランプール 
 世界で1・2の高さを誇るツインタワー 
 発展するアジア、無理に無理を重ねた背伸びか。 
 
 背伸びだと思います。 
 此れ僕の独断と偏見の結論です。・・終っちゃいましたね。

 クアラランプールが好きな友人は
 あそこはイスラム教の国だから猥わしい処は無いよと言いました。

 処が在ったんですねー、行ってきました。

   成田⇒コタキナバル⇒クアラランプールの忙しい旅でした。

 クアラランプール僅か一日
 20時間の滞在でした。

 正午に着いて昼間の型どうりの観光
 半日バスツアーです。

 午後5時にホテルについて一件落着。
 此れでは僕の旅は終わりません。

 此処からがcaptainyamaの本領発揮の旅
 好奇心ツアーの始まりです。

  上掲写真の小柄なガイド君に100ドル渡し
 オモシローイ処連れて行って呉れ

 危険でもいい、ワクワクする処、普段外国人が行かない処
 地元の人しか行かない処。

 時間は3時間。此れが僕の何時ものパターンです。

  ガイドが居ない時はタクシーの運転手をガイドに
 時にはホテルのボーイ、ディスコで知合った友達
 なんらかの伝手をフルに生かし
 3時間で其の国を覗き込む。

 だから危ない事も多々有りました。

    
 今回行った処の詳しい場所はわかりません。
 只、街の外れ

 ドブが臭く
 道はところどころに舗装が残った
 水捌けの悪い場所でした。

  所謂、娼館街でした。

 勿論違法です
 此処はムスリムの国です、とても厳しいです。

 外から見ると倉庫街です。
 此処でガイド君に言われました。
 captainyama此処は覗いてみるのは無料です。
 僕もお手伝いします。

 でも絶対 ゼッタイ ぜったいお金払って上るのは止めて下さいね。
 約束して下さい。

 何故なら娼館の経営者は警察と組んでいて
 営業の御目溢しを受ける為に外国人が来ると警察に通報します。

 警察は外国人を逮捕して
 法外な保釈金を要求します。

 此れは警察の商売なのです。

 以前日本人が此処を利用した事が有り
 ガイドの彼は警察が来るまでの時間を
 今か今かと外で見張りに立った事が有ったと云います。
 
 もう二度と厭だと言いました。

               
 ヨーシ判ったレッツゴーと突撃しました。
 倉庫の入り口には中国人の商売の神様「関羽像」が
 線香と供に飾って有り
 ガイド君がシャッターの穴から覗いて何か言うと
 シャッターはスルスルと上がります。

 中には窓に格子のはいったベニヤ張りの部屋が3室程あり
 申訳程度の粗末な寝台が据えて有り
 表情に全く力のない30代の女性が数人居り
 此方を見ると力無く笑いました。

 
 数人の客が来て観て居ましたが直ぐ帰りました。
 支配人はウチノ店は全部本物の女性だと胸を張ります。

 本物でない女性なんか居るのかと
 此の時は不思議に思いました。

 そして次から次に、また次 次に計5軒を一時間掛けて歩きました。
 
 利用もせずに外に出る時
 シャッターを果たして開けて呉れるのか心配でしたが
 問題は有りませんでした。
             
 倉庫街を後にして街に向って歩き出すと
 道端に大型バイクが停まり髪のながい女性達がタムロしていました。

 革ジャンを着たり、スタイルの良い人達です。
 暗くてよく見えないのですが何かエキセントリックな雰囲気が有ります。

 横道に入る角に僅かの街灯があり
 チラッと見えた女性の横顔には髭のような陰がありました。

 僕がエッと驚くと
 ガイド君すかさず小声で「オカマですよ」と言いました。

 でも近くにホテルでも有るのかいと聞くと
 「バイクの上でやるんですよっ!」エッエッー。

 立ち止って驚く僕を置いてガイド君はさっさと行ってしまいました。

 暗いとはいえ路上だぞー! 
 
 何とも怖ろしいクアラランプールのオカマ地帯でした。
 明るい街まで辿り着いたガイド君
 肩で息を吐き、無事生還できた開放感でニッコリ。

 彼も怖かったんでしょうね。
 仕事だからショウガナイか! 

 可哀想な事をしました。
      

   それではまた後日

img158
(コタキナバルで出会ったオーストラリア人の新婚さん)
        

ボラカイに負けた島 シコゴン フィリピンリゾート

flight029
(シコゴン空港・空港管理人のオジサンと!)

 

 世界的ビーチリゾートのボラカイ島
 其処から東南東に160㌔の処に
 ボラカイに負けた島シコゴン島が在ります。

 盛時は何れが
 セブに次ぐフィリピンビーチリゾートの覇者に成るか競った島です。

 今はコテージなど何も無く、只々廃墟と野原だけでした。

 ボラカイは長く続く白砂のビーチが売り物
 シコゴンはタイのピピ島のような
 ハッと息を飲む内湾が売り物です。

 セスナで上空を飛ぶとよく判るのですが
 ボラカイはウオーッと云う美しさ
 シコゴン島はハァーッと息を飲む美しさです。  

  余計分らなく成ったって?  
        ピピ島が20個在ると思って下さい。


 シコゴンは諸島なのです。
一番大きな島には滑走路が有り、着陸してみました。
上掲の写真が空港です。 

 野原だって? 其の通り 野原だって空港です。

flight028
(シコゴン空港  此処に着陸したんですよ 不時着ではありません)

 此処はフィリピン、未だ程度の良い方です。
 水田の様な滑走路だって、草が2m生えてる滑走路だって
 
 牛が20頭ウロウロしてる滑走路だって
 滑走路が大きく波打ってる処だってあります。
 
 フィリピンのパイロットは巧い、下手な奴はミンナ死んでる!。 

 次は御前だって  その通り  否定出来ないから恐ろしい。


 何故ボラカイに負けたのか
 マニラからのアクセスが悪かったのか
 でもボラカイ近くのカティクラン空港は最悪で
 無理を重ねた空港です。

 事故ら無いのが不思議なくらい。

 シコゴンの方が無理が有りません。
 海賊対策が難しいのか
 でもボラカイも駆逐艦で守られています。
 同じです。

 政治力が違ったのか
 外国人の僕達のウカガイ知る処では有りません。

 多分偶然が重なってボラカイが開発され
 ピピ島のようなシコゴン諸島は敗退し野原に戻ったのでしょう。


flight024

 此の話を聞いて
 『じゃあ私が島を一つ買って自前で飛行機を飛ばしてリゾートを造ろう』と
 考える方も居るかも知れません。

 多分2~3億円で出来るはずです。

 でも此処はフィリピン、自前の武力が無ければ
 海賊から身を守る私的軍隊が無ければ
 島のリゾートは不可能です。

 セブならば可能でしょう。
 ボホール島でさえも夜は海に向って警備員が立ちます。

 パラワンのクラブノアイザベルには
 レーダーも私的軍隊も有ります。

 素人が手を出せる物では有りません。


 では個人の別荘なら可能か。
 トンデモナイ 誘拐して下さいと言ってるも同じです。

 セブからセスナでピクニック此れが一番
 間違いない ウン 間違いない!。

 空港守のオジサンの家に行って
 ビーチで漁師に船を出して貰って
 隠れピピ島の誰も居ないビーチでフルチンで走り廻る。

 気分はレオナルド・デカプリオ
 『映画・ビーチ』の世界は如何でしょうか。 

 映画ビーチでは死人がでたって  其の通り  
 ボディーガード連れていってミンナでフルチンで走りますか
 勿論captainビゴテも一緒で   色気ないねー ハァッー

      

        それではまた後日


flight027
(野原みたいなシコゴン空港です。機材セブトップ セスナ RPC2706)



 シコゴン島では有りませんが
 ボホール島に有る小さな小さな島
 プントドアイランド(puntod island)を紹介します。

 boholのタグビララン市から近くにプントドアイランドが有ります。
 満ち潮の時には消えてしまうのではと懸念スルホドの小島です。
 全島が珊瑚礁で出来た真っ白い島です。

flight022
(空から見たプントドアイランド)

 セスナで上を飛ぶと
 時々小さな白いヨットが浮かんでいる事があります。

 其れはもうこの世の物とは思えない程、妖艶でセクシーです。


 
 今回はmodelを連れていって撮影してみました。
 youtubeにアップしましたが如何でしょうか。
 御覧下さい。
 フィリピンには実に綺麗な島がいっぱい有ります。

セスナの操縦って簡単か・・な? セブマクタン空港

050406058
(セスナ172XP・横田アビエーションの機体・ルソン島地域の島で)

  

 270時間の素人ヘッポコ・パイロットのcaptainyamaが
 偉そうにセスナの操縦の話をします。

 此れからプロに成ろうと志す
 前途有望な若者は決して読まないように!。

 何故ならマイクを取って直ぐに
 「メイデイ・メイデイ」と叫び始めるからです。

 パイロットは孤独なもの、「タスケテクレー!」じゃ勤まりません。
僕は・・いいんです・・素人だから。

050406076
(双発機ナバホの操縦席・セスナより操縦難しいよ!)

 セスナ機は操縦する必要がありません。
 勝手に飛んで行って呉れます。
 其れほど安定の良い飛行機です。

 低翼機と比べ横滑りも有りません。

 高翼だから下方も良く見え着陸で羽根を擦ることも有りません。

 速度も70kt~100kt(180㌔)しか出せません。
 50kt(90㌔/時)以下の低速度で墜落します。

 だから着陸は50~70ktの
 僅か20kt(37㌔)の範囲で実行します。

 フワッーと
 滑走路の決められた地点に接地出来れば此れで卒業。

 簡単でしょう・・そうかな? 
  
 セスナには操縦桿が左右2個有ります。
 機長席は左側です。

 操縦装置は両足のペダルが方向舵
 左手(片手)で操縦桿、右手で棒状スロットル(アクセル)を握ります。
 此れだけです。

 操縦桿は右に廻すと機は右に傾き右旋回し左だとその逆です。
 手前に引くと機は上を向き、押すと下を向きます。

 ペダルはブレーキと兼用に成って居り
 此れの扱いは非常に危険です。

 ペダル板は方向舵として使う時は
 必ず下部を足先で押すように扱い

 ブレーキとして使う時は思い切って上部に持っていき
 静かにクックッと用心深く押すように使います。
 クックッです。

 方向舵として使うかブレーキなのか
 ハッキリと区別して使う、此れが非常に・非常に大切です。

 離陸滑走中に誤ってブレーキを踏んで
 滑走路から飛び出す事故を起さないように注意・注意です。

 セスナのブレーキはとても貧弱なので、使わないのが基本です。

 セスナの操縦の基本は操縦桿では無く
 右手のスロットル、パワーの出し入れ、此れが基本中の基本です。

 此処が飛行機が自動車と決定的に違う処です。
 パワーをかけると上昇し抜くと降下します。
 だから両手で操縦桿を持つのはご法度です。
 駄目・ダメです。

050406085
 (少し太っていた時代・双発だから いいか!・横田アビエーション)           

 ドウですか飛ばせそうですか? 
 眠くなってきたって! 
 寝てください。
 セスナはパイロットが眠っていても飛ばせるのですよ。

 本当です。captainビゴテの話に拠ると
 朝4時に起きて
 5時からカーゴをミンダナオ島に運ぶ仕事が有るそうです。

 荷物は高級鶏・高級魚・海老の稚魚・・?・ 魚屋さん?。

 高度10,000f(3000m)パイロットは一人
 話し相手は居ない、空気は薄い。

 規定高度に達すると目的地まで1時間以上
 然したる仕事も無い。

 すると睡魔がサァッーと襲ってきて
 ドレダケ眠っていたのか気が付くと目の前に山
 ミンダナオの山 山 山。
 
 慌てて旋回して高度を上げると云う様な事は
プロパイロットなら一度ならず有る筈だと言います。

flight003
(トップフライトの教官と・RPC2706 200時間乗った愛機)

 一度ならずでは無いでしょう教官。
 貴方訓練から帰って来る時、毎回僕の横で寝てましたよね。

 イビキかいて、時々オナラして。
 操縦席狭いんだから
 訓練前にオナラが臭くなるニンニクは食べない。

 此れパイロットの常識、セブトップの非常識。
 アミーゴでラテンなcaptainビゴテの怖く・楽しい話でした。

 ドウでした少しは為に成りましたか。

 体験操縦は何処の民間航空会社でもやっている事です。
 最初は離陸してから操縦桿を握らせて貰ったら如何でしょうか。

 でも日本航空に頼んでも無理ですよ。

      

  それではまた後日
 


cebu088
 (Topflite時代の仲間と!)
  

 レイテ島イロンゴス空港でのタッチアンドゴー訓練の動画を
 youtubeにupしました。御覧下さい。

夫婦旅行はスイスで決まり 仲直りにも最適


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(マッターホルン)

      
 モスクワからカサブランカに向う途中

 アルプス上空の雲が消えミニチュア箱庭のように
 スイスから北イタリア一帯が見渡せた事が有りました。

 真っ蒼な空、白い雪のアルプス、ブリリアントな光景でした。
 機内ではツェルマットが見えた
 インターラーケンだと地名が飛び交いました。

 生涯に幾度も無い機会です。

 面積は狭くても複雑に山脈で分断され
 個性的な風景が場所場所で現れるスイス。

 飽きの来ない絶品の風景です。

 スイスに毎年来る日本人の方も多いと云います。
 別荘を買ってしまった方もいらっしゃるとか。
 でも越冬は厳しそうですね。

 僕が行ったのは6年前の7月下旬
 最良の季節の始まりでした。

 でも寒かった
 モンブランは吹雪でロープウエーが動かず。

 ユングフラウ・ヨッホで堪らず冬用ジャケットを買い込みました。
 其れでも寒く、ウーンと縮こまっていると。

 色白のポッチャリ顔の至極上品な御夫人が
 そっとスカーフを貸して呉れました。

 千ドル以上もする欧州有名ブランドらしいです。
 他の方から聞きました。
 どうも有難う御座いました。

  惚れちゃってイイですか?。

img102
(スイスの高原鉄道・世界最高の車窓風景)

 ツェルマットから高原鉄道に乗り
 マッターホルンが見渡せる処まで行きました。

 3500mだと聞きます。
 そこでタンゴ 踊りました。
 仲良くなった御夫婦の奥様をお借りして。

 スイスは何処を撮っても美しく、絵になる風景です。
 多分地球上で一番日本人好みの良風景地帯でしょう。

 高原特急に乗り
 トンネルを抜け峠を越える度に歓声が沸き興ります。

 其れだけ綺麗なんです。
 しかめっ面の人は居ません。
 夫婦が仲良く成れる処、ツァー同行者とも親しく成れます。

 img146
(レマン湖畔にたつ古城)

 あてられっぱなしは面白く有りません。
 天邪鬼のcaptainyamaの小話を一つ。
   
 英国旅行中にツァー添乗員に聞いた話です。

 彼女の欧州添乗ツアーのとき
 何時も喧嘩をしている御夫婦が居たそうです。

 何時も何時も口喧嘩
 『御前なんか連れて来るんじゃなかった』
 『なによアナタなんか置いてってやる』
 旅行に何しに来たのかと思える程だったと云います。

 何時も最後部に座り
 御主人は髪が薄く大きめの帽子を被って居たそうです。

 長距離バス移動の途中
 トイレ休憩でバスストップした際
 10分・15分と時間を決めるのですが

 其の時は即決出来づに
 半分程の乗客がトイレに急いで降りた後に決まったそうです。
 
 皆さんに伝えて下さいと云い
 時間までに皆さん集ったそうです。

img122

 添乗員はもう一度、お客様の頭数を数え
 よーし40人間違い無い。
 出発進行! と運転手に号令を掛け

 バスはスルスルと駐車場を後にしました。

 ヤヤ行くとバスの後方から
 必死にバスを追い駆けて来る日本人らしい
 老齢の男性に気が付きました。

 彼は汗だくで、置いて往かれまいと必死で
 バスの後を叫び乍追って来たと云います。

 急いでバスを停めると。
 不仲夫婦の御主人でした。

 奥さんは誤った出発時間を御主人に伝え
 御主人の帽子を右手で支え
 彼が座席に座って居るかの如く見せ掛けて居たのです。

 怖ろしやオソロシヤ熟年離婚一歩前!。

 スイスではコンナ事件は絶対に無いでしょう。
 兎に角、風景が綺麗でウオー ウアー スゴーイの世界です。

 熟年離婚二歩手前の御夫婦の方
 スイス旅行をお奨め致します。
            
      
    それではまた後日

             

img176
(地球には、こんな美しい景色があるのですね!)

夫婦喧嘩は銃撃戦 頑張れジャピーノ 日本男児 セブ

PICT1753

     
 日本人は仕事人間。 
 少なくとも僕達の世代までは。

 仕事帰りに歌舞伎町で一杯は普通の事。
 処が国が違えば常識も違う。

 些細な行違いが大変なトラブルに発展する事が有ります。
 犬も喰わない『夫婦喧嘩』こんな事では死にたくない。

 今日は死にたくない殿方必見のお話です。

 日本の家庭にピストルは有りません。

 処が米国好きのフィリピンは警察に届出る事を条件に
 個人の銃所有を認めています。

 但し外国人名義では持てません。

 ホテルやコンドミニアムに住めば
 セキュリティーガードが居り
 自ら銃を持つ必要は有りません。

 デパートの入店時は
 ボディーチェックの銃検査が有り店内は安全です。

 路上のマクドナルドでも
 銃で武装したガードマンが『いらっしゃいませ』と
 ドアを開けて呉れます。

 銀行は勿論ショットガンです。
 其れでも銀行は毎月襲われます。
 安全なセブ島でさえも。  ナンチュウ国だ  トンデモナイ!

 上流階級の子供の喧嘩に
 銃が飛び出す事は多々有ります。

 其れだけ銃が溢れているのです。
 一軒家に住むのであれば銃は必需品です。

 包丁まな板の様なものです。
 喧嘩があれば銃がでる。
 其れが家庭内のトラブルでも。・・どうです段々怖く成ってきましたか。

    もっと怖くなりますよ。   
                    ふっふっふっ

PICT1198
 (セブ市中心街のショッピングセンター) 
  
 セブで事業を起しているP氏
 お客様の接待でカラオケに出かけ一杯のビールが二杯と成り
 酔い潰れて、お客様のホテルで寝てしまいました。

 酒酔い運転は危ないですからねー。
 翌日昼自宅に帰りました。

 
 『いやー大変だった皆さんお酒強くてさ。朝4時まで付き合わされたよ。
 でも仕事巧く行ったよ』日本では当り前の事。

 出来の良い奥さんなら二日酔いの薬をしっかり用意し
 御粥を温めて梅干を添え

 『お父さん家族の為に有難う、御苦労様です。
 でも身体だけは気を付けてね、お父さんが大黒柱なんだから』と
 背中を摩って呉れます。

 処がP氏の場合事態は思わぬ方向に。
 奥様はフィリピーナなのです。
 『アナタ 嘘ツイテモダメヨ 浮気シタデショ』
 カイヤのような口調で捲くし立てる奥様。

 P氏が幾ら説明しても駄目でした。
 事態はドンドン悪くなり、堪り兼ねたP氏日本男児

 『亭主の苦労が判らない女とは暮らせない、離婚だ、
 俺は事業畳んで日本に帰る』言ってしまった。

 言ってしまったゾー。

PICT1149
(セブ市の高級会員制スポーツクラブ)

 カッコイイ! 男だねー 日本一。

 奥さんの顔は蒼褪め、表情が変わったと云います。
 日本人なら此処で『実家に帰らせて貰います』と成り

 主人が後から迎えに行く話の展開と成ります。

 処が奥さん、ワーッと雷のように泣き
 クルット後を向くと自分の部屋へと駆け出しました。

 其の途中近くに有ったバスタオルをしっかり握って!。 
 

 分からない女には
 此れぐらいガツンと言わないと伝わらない。

 謝って来たら許さない事も無い。
 俺も日本男児だ。
 少し言い過ぎたかな。

 アイツも良い所有るんだし
 俺から御免ねって言ってやろうかなと思って居ると。

 部屋のドアを開け奥さんが静かに戻って来ました。

 ナッナッナント 
 其の手にはイスラエル製の45口径
 自動連射ピストルがシッカリと握られ

 ナッナッント ピストルはバスタオルでグルグル巻きにして有りました。
 
 ヒぇーッ マジで ウソだろー チィッチョット冷静に成ろうよ
 兎に角チョッと待って呉れ ・・ 

 其の後ドウナッタか   P氏は未だ御健在です。
  ヨカッタ   頑張れジャピーノ 日本男児

PICT1234
(セブ島の碧い空)   
        
 マニラとセブで大きく事業を営むK氏

 フィリピーナの奥様と離婚しました。
 如何して・・? 

 20年前の奥様は綺麗で小さくて可愛くて
 オードリー・ヘップバーンの様だったと云います。

 処が事業を発展させる過程で苦労をさせてしまい
 副社長である奥様は
 不良従業員をグーの拳でぶん殴るように逞しく育ったと云います。

   エーッ   オードリーがですか。 妖精ですよ。 

 堪り兼ねたK氏 アンタとは一緒に暮らせん。
 事業を半分やるから離婚しょう。 
 言った 言ったぞー 日本男児 カッコイイー。

 半年程して独り身のK氏
 今度はキャサリン・ヘップバーン似の奥様が出来ました。

 其れを聞きつけたオードリーは逆上し
 家からリボルバー45口径を持ち出し

 K氏行き付けのレストラン目掛けてマニラの夜の街を単身運転して
 走った走った。
 逆上して記憶が無いと云います。 ウワーッ 怖えー

 其れとは知らず、喰った喰ったで爪楊枝を咥え
 腹を摩りながらレストラン玄関に立ったK氏。

 迎えの車に乗り込もうとした時
 猛スピードの黒塗りの車がキィッキィーと
 ブレーキ音と共に入って来ました。

  ウンッ と見るとオードリー。
 オウ 久し振りと手を挙げた途端、撃たれた。
 撃たれた。 
 エッ 如何して なんで エッエー 

 幸い弾は横に逸れ 
 其れからは車二台を間に挟み
 彼のボディーガード共々暫しの銃撃戦。

 車2台が廃車に成りました。

 此の事件があってから
 双方は以前にも益して親しくなり
 今でも交際は続いて居ると云います。

  銃撃戦やって刑務所に行かずに済んだと云う所が
 マニラの不思議で怖ろしい所ですねー。  

    
     頑張れジャピーノ  日本男児

    嘘のような本当の話 フィリピン恐るべし 

  フィリピーナの奥様にはクレグレモ銃は持たさないように
                 

          それではまた後日
  

PICT1765
(セブ島には年中花が咲いています)

ブダベスト市内 夜の迷子旅 日焼けサロン発見

010316121

 (漁夫の砦・白い大理石が奇麗です)

    
 初春の3月、ブダベストに行きました。

 相変わらずの夜の一人旅
 タクシーを飛ばし夜の鎖僑を渡りました。

 レストラン・劇場・繁華街
 ガイドブック片手にタクシーを乗り継ぎ
 Mateホテルまで2㌔と思える場所でタクシーを捨て
 夜のブダ地区を歩きました。

 30分程歩く積りが何時の間にか1時間
 通行人に道を聞くと英語で快く教えて呉れます。

 其の通り歩くと、坂道の三叉路に出ました。

 右に行くと教えられていたので一番右の道を選び
 更に30分歩き
 迷った事を自覚しました。

 ブダ地区はポルトガルのリスボンと同じく坂の町です。
 アップ・ダウンを繰り返し
 地図が其の侭では機能しない町だったのです。

010316137
(ブダペスト くさり橋)

 其れから15分於きに通行人に尋ね
 其の度に英語で親切に答えて貰いました。

 そして3時間、10組程のハンガリー人に道を聞き
 気が附くとヒルトンホテルの裏口に出ておりました。

 ホテルのスタッフに頼みタクシーを拾い
 (マテ・ホテル)まで帰って来れたのですが
 本当に直ぐ傍だったのですよ!。

 迷子の途中、日焼けサロンに出会いました。

 古い石造りの建物の1階に青い燈が見え
 近ずくとマシンの蓋を開け
 受付に女性のスタッフの姿が見えました。

 如何やらマシンは1台だけの様でした。

 ブダベストで日焼けサロン、いいねー
 焼きたいねー、絵になるねーと思いましたが
 今は迷子の身分
 深刻な顔をして歩く事に決めました。
     
 翌日、漁夫の砦近くの楽器博物館に行き
 ジプシーの楽器や古いヴァイオリンを見ました。

PICT3434
(Mathias Thir マスィアス・スエー 1773年製作・ウイーンの楽器・相場で2万ユーロ)

 そうかヴァイオリンのケースを買って帰ろうと
 ガイドに相談すると工房に案内されました。

 ついでに古いヴァイオリンは無いかと尋ねると
 230年前の物を持って来ました。
(マスィアス・スエー 上掲のバイオリン)


 補修の具合も良く値段も程々でしたので
 全ドル札を掻き集めて買い取る事にしました。

 今も私の宝物の一つに成っております。

 工房に居ると次々と音楽家が来店し
 修理した楽器を持って帰ります。

 ガイドに聞くと
 『皆ジプシーですよ、定職も無くて大変ですねー』と言います。

 音楽家の社会的身分は高くはない様に思えました。

 其の日の夜
 夕食は高台のレストランで豪勢にやると言う事で楽しみにして行くと
 昼間に工房で会ったヴァイオリニストが出演して居り
 見事な(ジプシー音楽ショー)でした。

 ハンガリーに実際に行ってみて
 此の国が近隣のルーマニア・チェコ・ポーランドと比べてみても

 国力・文化・人間の教養に於いて遙かに上で
 旧共産圏だったとはとても思えない
 と言うのが僕の感想です。

 高価なヴァイオリンで腕は上ったかい? って 
 いいえ勿体無くて飾って楽しんでおります。


                それではまた後日
    


010316143
(ブダペストのバイオリン工房)

千歳空港の管制官は君の後で見ていた 旭岳フライト

fly2

 (初秋の大雪山・旭岳)


 フィリピンのセブ島でばかり飛んでいたので
 久振りに日本の空が恋しくなりました。

 秋の紅葉が始まった大雪山
 天候が厳しくなる前に是非見てみたいものだと思いました。

 航空図に鉛筆を入れてみました。
 丘珠から夕張岳に進み、先ず此処の紅葉を楽しみ

 次に進路を北に取り夕張山地を北上し
 富良野から十勝岳南側に進む、

 次に十勝岳東側(裏十勝岳)を北上し
 高原沼上空から高度を上げて最高峰旭岳を回りトラムウシ岳に至り
 そして空知平野上空を抜け
 ピンネシリ岳を回り丘珠に着陸する。

 約3時間のフライトでした。

fly 002
 (秋の旭岳フライト・かなり寒い)

 丘珠を午前中に離陸する事が出来ました。
 高度1500fで夕張に向うと
 千歳空港の管制圏に僅かに入る事になります。

 千歳空港は発着機の多い大空港

 滑走路19を使用する時はB747が
 江別の近くまで低空で接近する事があります。
 
 此の時もRunWay19でした。

 千歳アプローチにコンタクトすると高度維持を言われ
 夕張近くで2500fを許可され

 其れでも直ぐに山地が下から迫って来て
 ウーン 如何しょうかと思った途端 3500f と指示されました。

 余りのタイミングの良さに
 僕は思わず後を振り返ってしまいました。

 普通レーダーで見ていただけでは地形の標高は分りません。
 命が惜しければ管制官の指示を拒否してでも上昇する。

 例え教官の命令を無視してでも上昇します。
 フィリピンの常識。

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(ルソン島の田舎の空港・管制室で)

 それにフィリピンでは
 管制官はレーダーを見ていません

 レーダーが有る事自体
 故障せずに動いている事さえ疑わしいと思います。

 なんで一々SM・south上空です、とかマビニポイントです、とか報告させ
 頻繁にDME(空港からの距離)を聞いてくるのか。
 レーダー見てれば分るでしょうと言いたくなります。

 これが田舎のラヂオ空港なら分るけれど
 セブ・マニラの国際空港でこの調子です。

 マニラはもっとひどくて
 アプローチにコンタクトする事さえ難しい状態です。

 スペシャルVFRで離陸し
 10nmで高度変更の許可を取ろうとして15分間出来ず

 (何故出来ないかと云うと、アプローチへのコンタクトが殺到して
 会話に割り込んで行けない
 日本人の6000時間の機長で此の有様です)

050406083
 (横田アビエーション・双発ナバホ 7時間飛びました)

 気がつけばタガイタイの外輪山が眼の前
 勾配地帯に入った為
 地面が下から湧き上がって来る錯覚に襲われました。

 此処は30nm、管制の15nmは過ぎていました。

 スペシャルVFRはIFRだから許可が必要だと言い張る教官を無視して
 65Ktで必死に上昇しました。
 此れがフィリピン・・タスカッター!

050406084
(マニラ近郊)

 青森空港タワーから指示を受けた時も
 (進路変更が遅れた)良く見ているなと感心しました。

 千歳アプローチは地形を解釈し
 僕達の機の為にワザワザ指示を出して呉れたのでした。

 なんと素晴らしい、レーダーがあって
 使いこなして、親切だとこうなる。

 日本人で有る事を誇りに感じた一日でした。

  紅葉は如何でしたかって・・? 

  紅葉の赤がすばらしかったと思います。
 日本は紅色と黒と深緑色の国だったんですね。
  
         

     それではまた後日

 Still0611_00000
 (丘珠空港)
           

 今回のフライトでは有りませんが
 初めてafj-okadama-flite clubに伺った時

 体験でキャプテンK氏の丘珠空港タッチアンドゴーに同乗しました。
 ビデオを編集しましたので、youtubeにアップします。御覧ください。

    

セブのセレブが来るThe Wine Shop ラテンの薫り

PICT1682
(白ワインは お好きですか)

 セブの地元テレビ局でコマーシャルが流れる
《The Wine Shop》に行って来ました。

 ゴロルドAve、Taxiの運転手に告げると直ぐ分りました。
 Ayalaの近くです。
 我家からはTaxiで100円です。

PICT1672

 注文、白ワイン1本・パイナップルとマンゴ各1皿
 カマンベールチーズ1皿で計740ペソ也(1850円)。
 音楽チャージは未だ無い様です。

 30坪程の店内、2坪の小さなステージです。
 此処から流れ出すラテン音楽が凄い・スゴイ・凄すぎる。

 自称スペイン人のメインsinger
 リッキーマーチンのラテンナンバーを次から次へと歌い出しました。

 唸るようなラテンの発音 小さな身体が共鳴して 
 絞り出されて来るビブラート、僕の心臓はパクパクしちゃいました。

PICT1684

 二年前ニューヨークのセントラルパークに夕方行くと
 サンバやルンバの踊りのサークルが一杯でした。

 中米・南米からスペイン語を話す人達が大量に流れ込み
 デパートの食堂でもスペイン語が溢れていました。

 ハーレムの黒人地区は小奇麗に成り、職も得られて
 黒人問題はニューヨークでは解決済みの様に思われました。
 だから・・Jazzは・オワッタ・・! 

  PICT1687
    
 最下層のラテンの人達の文化
 Jazzよりもソフィストケイトされた音楽 ラテンが
 21世紀の最初の四半世紀に流行る!
  僕はそう思っています。

 此処フィリピンの人達はJazz(英語)の発音が最高です。
 一方で300年間のスペイン植民地の歴史も有ります。

 フィリピン語の中にもスペイン語が沢山入っていて
 地元の人はそれを知らずに使っています。

 元々は中南米と同じラテンの血が流れている人達なんですね。
 だからフィリピン人が歌うラテンも巧い

 だけど本家のスペイン語の音楽は凄い スゴイ 凄すぎる。
 たぶん《The Wine Shop》で唄っている
 彼(自称スペイン人)の技量に負う処が大きいのでしょうけど凄い。

 僕は興奮します。心臓パクパクしました。

PICT1665
(看板シンガー)
             
  夜も12時を過ぎた頃
 赤いポロシャツを着た30代後半のハンサム な紳士が
 スッと入ってきました。

 5~6人の友人と待ち合わせをしていたらしく
 テーブルに着いて楽しく会話が弾んでいる様でした。

 (アレッ何処かで見たこと有るなー)と思っている内に
 誰かが一緒に写真を撮り始め
 暫し写真タイム。

 よく見るとセブ市のバイスメイヤーでした。

  階級社会であるフィリピンの政治家は
 名家の出身者が選ばれます。

 彼も血統証付きのサラブレットなのです。


  オーラも有るし普通のオジサンでは有りません。

 日本人の観光客や独身の駐在員がいくレストランは
 日本食レストランか綺麗なオネーサンが居るお店です。

 でも折角セブに来ているのだから
 現地の地元の洗練されたレストランも如何でしょうか。

 最近はフィリピンの経済事情も好転して
 (教養有るプチ上流層)も形成されて来ており
 今後に期待が持てる時代になって来ました。

 The Wine Shop 
 音楽演奏は 木・金・土曜日限定で夜9時~夜中2時迄です。

 かくしてワイン1本を飲み干し
 些か二日酔いの頭で此のBLOGを書いています。
 《The Wine Shop》Latinミュージック
 心臓パクパク謂うか否か特と御覧あれ!  

 パクパク謂わなかったら如何するかって? 
 
 ・・僕のワインの飲みすぎだと思って諦めて下さい。


       それではまた後日 

 

PICT1689
(ワインの在庫がいっぱいです)

トルコ風呂は田舎のサウナ銭湯でした 東トルコ


010528007
(トラブゾンの黒海です)
    
 《黒海》って見たこと有りますか

 中学校の頃世界地図を見るのが大好きでクリミア半島
 イスタンブール 日本とは遠い国
 黒い海(Black Sea)って海水が黒いのかな。

 そんな想像を廻らしておりました。
 結論を言うと《日本人から見ると普通の海でした》日本海と同じです

 日本海の方が黒い海です。
 エーゲ海のブルーから見ると黒い海なんでしょうね。

 僕の生まれた北海道の海は北の日本海
 何時も鈍よりと曇っていて、海草と磯の匂いがプンプン
 海とはそういうものだとばかり思って居りました。

 今僕の住んでいるセブ島は珊瑚礁の
 バスクリンの様なライトグリーン色です。


 カリブ海クルーズで見た海はライトブルー 刻一刻と
 ブルーの深さが変ります(カリビアンブルー)。

 念願叶って黒海南岸トルコのトラブゾンに来れ
 黒海の色を確認出来ました。
 嗚呼ースッキリした。


 古代キリスト教遺跡を見た返り
 ついでに田舎のハマムを見学しょうと云う事になりました。

    
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(河の側にあります・日本の温泉場みたいです)

 《日本の安い湯治場のような銭湯》此れが印象です。

 (上に写真掲載)玄関を入って直ぐ脱衣所、兼休息所
 個室が上下に10室程、サウナ室は数部屋あり

 円いドームの大型サウナ室には
 垢すり用の円い石の台(直径3m)があり
 垢すりサービスを注文できます。


 以前イスタンブールのホテルのハマムで
 垢すりのサービスを注文したところ

 プロレスラーの様な毛だらけのオジサンが来たと言う
 悪い思い出が有ります。

 営業時間前だと云うのにサウナ室は大変な湿気
 眼鏡があっと云う間に曇ってしまいました(其れで写真無し)。

 建物はタブン
 100年位の歴史が有る様で経営者一族の財産なんでしょうね。

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(ハマムの主人)

 ポンペイの遺跡でもイスラエルのマサダの遺跡でも
 大衆サウナの跡はあり
 お風呂は文明人の娯楽の原点なんでしょうね。

 そう云えば我がセブ島にも

 「チロリン村」や「神楽」等日本食レストランが
 お風呂・スパ・マッサージ店を兼ねる処があり
 現地人経営のスパも大盛況です。

 ただ此処はアジア
 サウナ室よりマッサージに主力が有るようです。

 セブ島を観光で訪れた際は
 珊瑚礁の海を堪能した後(セブ島式垢すり)と
 お風呂にトライして見ては如何ですか。

 毛ムクジャラでは有りません。
 
 今日はセブの観光案内風に締めます。


それではまた後日
      

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(100年以上たっているハマム・トルコ式銭湯です)

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(黒海の畔に立つアルメニア風建築)

 東トルコに位置するトラブゾンは
 アルメニア様式の六角形の建物がある街です。

サンダカンに行こう セブからも行ける 800キロ

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(サンダカンの日本人墓地 よく整備されていました)

 マレーシアのサンダカンと云えば《サンダカン八番娼館》で
 一躍知られる様に成った処。

 日本人のコロニーが有り、それも100年も前から。

 4年前フィリピン ミンダナオ島のダバオに行った際
 日本人墓地に参る機会が有り

 墓碑を見ると明治の年号
 札幌の墓地の年号も明治20年代が最古です。

 開国後の50年の間に
 日本の民間人が爆発的に国際化していった事の証明でしょう。

 一方は領土として残り他方は大戦後に一掃された。
 地球儀を遠くにして眺め、日本にスポットライトを当てた時
 
 此の100年のアジアの歴史は
 特異な《日本の時代》だったのだと思います。

 日本が主役と成る時代はもう二度と来ないかも知れません。
 
 そのサンダカン行って参りました。

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(丘のうえから遠浅の港がみえます。 サンダカン)

 僕の住むフィリピンで(コタキナバル)と云えば危ないイメージの処
 ムスリムの地域、貧乏、テロリストの基地、何でソンナ危ない処に?。
 と言われました。

 でも危ないのはフィリピンの方が
 ズート・ずーと・ズッーゥッと危ないんじゃないですか。

 マニラの人にセブに来ませんかと言うと
 ピサヤはゲリラが居て危ないからチョット・・と言われました。

 でもマニラの方がズット・ズット・ズッーと危ないんじゃナイデスカ!。
 要するに他に行った事が無いから知らない
 テレビの報道を鵜呑みに信じている訳ですねー。

 何処の国でも報道が一番の大嘘つきです。
 ハイ、此れ世界の常識です。

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(コタキナバル 高級リゾートホテルのテラスから絶景の湾が望めます。早朝には奥にキナバル山も見えます。ルームサービスで朝食)   

 コタキナバルにはシャングリラ級の高級リゾートホテルが5~6個あり
 清潔さではセブなど足元にも及ばないと思いました。

 道路は質の良いコンクリートで舗装され
 分譲住宅の質も良く値段もセブより安く
 治安に問題があるとは思えませんでした。

 違法に入って来るフィリピン人こそが治安のネックだと
 マレイシアの人達は思っているようでした。

 ナント云っても石油の採れる国は強いと云う事でしょうね。

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(キナバル山 4095m)

 次いで国内線の飛行機でサンダカンに移動しました。
 キナバル山の南を通り、丁度1945年(死の行進)が有った真上です。

 可也の部分が開墾され椰子の樹が規則正しく植樹されていました。

 サンダカンは遠浅の港町でした。
 丘の上に中国寺院があり港に魚市場があり
 セブのカルボン市場よりは衛生面・治安面で上の様に思えました。

 でも可也臭かった。
 旧市街の建物は古い物が多かったです。
 アジアですねー。 そのとうり! アジアです。

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(正面が魚市場 サンダカン市内)

 此処の観光客は英国人 オーストラリア人です。
 旧英国植民地です。
 彼らと一緒にオラウータンを見に行き楽しく旅は終わりました。

 サンダカン⇔セブ僅か800㌔なんですね。又行きたいと思いました。
            

   それではまた後日      


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(オラウータンが観光の目玉です)

夜のハバナ湾 僕は此処に浮ぶのか

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(ハバナ湾の側に建つコヒバホテル・キューバの高級ホテル)

            
 好奇心旺盛のcaptainyama
 往くなと言われるとイキタクナル性分で
 もうダメかと思われた事もシバシバ有ります。

 例えばキューバのハバナ
 共産党本部の近くに有るビルの地下一階
 大きなディスコが有りました。

 ビール片手にテーブルにつき
 サルサを楽しんで居りました処。

 時間は夜11時を廻って居りました。
 地元のカップルが三々五々集って来て踊りも真っ盛り
 ワァーッ本場のサルサだ楽しいなと自ら御満悦の時
 ナオミ・キャンベルに良く似た身長170㌢の色黒の美女が現れました。

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(御存知 高級キャバレー トロピカーナ)

 「コーラ奢って呉れる?」 と聞くので
 what's problem! 10ケースでもOKだよ! と座らせ話を聞きました。
 モードモデルの大学に行って居ると言いました。

 踊ろうかと手を取り
 ニワカに覚えたサルサを踊り楽しい時間が過ぎて往きました。

 ヤヤ有って、彼女の知合いの処に行く事になり
 タクシーを拾い走り出しました。
    
 夜のハバナ、大使館街を過ぎ
 ヘッドライトには家々が写り、蒸し暑い風が頬をなでてゆきます。

 すると序々に段々家が無くなり
 車は無人地帯へと進んで行きました。

 シマッター とうとう遣ったか 
 やっちまったーと思っている内に
 車は一軒の大きな家の前に止まりました。

 タクシーの運転手がクラクションを鳴らすと
 ドアがゆっくり開き
 其処から出て来たのは額を剥き出しにしたナンと
 マイケル・ダグラス似のニヒルな男。

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(ハバナ湾のスペイン時代の要塞)

 ワァーッもう駄目だー 
 僕のツマラナイ人生が走馬灯の如く浮び

 明日僕の死体がハバナ湾に浮んだら、如何か証言して呉れよなー
 との願いを込めて運転手に多額のチップを渡し
 僕は連行されるように家に入って行きました。

 室内には20代と50代の女性が眠そうに起きだしてきました。
 ワッーァ此処はそういう処だったのか。

 心臓が背中から後方に引っ張り上げられる感じ
 判りますか。
 心臓パクパク、足は地面を感じない状態です。
           
 結局此処はバックパッカー用の木賃宿で
 女性達はオーナーのマイケル・ダグラス氏の奥さんと娘さんと判り
 特に此のダグラス氏、飛切りの人格者でした。

 僕の泊まっていたコヒバHotelはハバナの超高級ホテル
 此処は20ドルだから移っておいでと
 親切にアドバイスして呉れました。
 
 それで・・お楽しみは・・如何でしたかって?。

 其れどころじぁ無いよ
 心臓の筋肉が疲労で止まりそうだったよ。

   きちんと正座してました!。・・本当です・・
      
   それではまた後日
                


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(郊外に行くとスペイン風の教会があります)

軍事最前線 コタバト空港 狙われたら一発だ ミンダナオ

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(ミンダナオ島  コタバト空港)

 セブからディポログ、パガディアン空港を経て
 ミンダナオ島の軍 事最前線 コタバト空港に着陸しました。

 コタバト近郊を飛んだ民間ヘリコプターが
 イスラムゲリラの狙撃で孔だらけになって
 セブに帰ってきた事が有ると聞きました。

 パガディアン⇒コタバト間は陸上を低空では飛べません。
 海岸線を2NM離れて飛びました。
 あれがコタバト空港だよとcaptainビゴテが指差します。

 あの山の中腹、見えないかい? 
 見えません! 

 当然海岸付近だと思ったのに
 彼の指示どうり飛ぶとドンドン山の中に
 と云うよりも切立った崖に向って機を飛ばす事に成ります。

 崖まで1NMの地点で
 左旋回ファイナルアプローチで直ぐ着陸でした。

 滑走路口(スレッショルド)は崖で、滑走路は波打っていました。

 速度を落としてエプロンに入ると
 装甲車が御出迎えして呉れました。
 何度かゲリラの襲撃を受けていると聞きます。

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(ミンダナオ島 イピル空港 クロスカントリーフライト)

 30分程で離陸、離陸して直ぐ右側に小高い丘
 あそこから狙われたら一発だなあと思い
 左に変針しドンドン昇りました。

 3000fまで 3000fまで 
 未だか未だかで心臓パクパクでした。
                            
 コタバトからジェネラルサントスまで100nm(180㌔)途中
 ブルアン湖の上空を通過しました。

 此処がマギンダナオ地区
 古くからのイスラム地帯です。

 荒木いさお氏著『ミンダナオ島戦記』の世界です。

 コタバト⇒ブルアン湖までの80㌔は一面の田畑

 低地平野で河も多く水も豊富
 大規模で整然としたプランテーションも有り

 私的な滑走路を持つ農場も有りました。
 耕作に適しており、豊かで古くから
 文明も開けた地帯で有る事が分ります。

 ブルアン湖は可也大きな湖で上空から見ると
 其処だけ雲がポッカリ在りませんでした。

 此の辺りからの道路はジェネラルサントスまで実に良く整備されて居り
 下を行く車の速度も相当で
 フィリピンでは珍しいと思いました。

 軍事的輸送力の確保とも思われます。


 格して山間を抜けると

 広大なジェネラルサントスの荒野が広がり
 コレマタ成田空港より大きな
 ジェネラルサントスの空港に着陸しました。

 横風がツヨカッター、ドウナルカと思った。

 良かった・良かった!。

 着陸してから西側の荒地を見ると
 メキシコの砂漠の中かと思える様な奇妙な地形。

 此処がフィリピンか ? と思う様な
 厳しく・刹獏とした世界。

 フィリピンも広いねー!。

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(航空地図 ミンダナオ)

  エプロンから出て空港レストランに向う途中
 やたら態度のデカイ空港警備のオニイチャンが遣って来ました。

 「ハーイ・captainビゴテ」、ビゴテ氏は厭な顔
 「セブまで返るのなら僕の友達を乗せていって呉れよ」と
 堂々として、さも当然に言いました。

 此の若造は職権を笠に着て此れで商売をしているらしいのです。
 流石フィリピン、汚職の天国。

 それを断って昼食後ダバオへ飛び

 給油後ミンダナオ島東海岸沿いに北上し
 着陸できる空港は全て降り、セブに帰着夜6時半

 今朝は6時に出発しています。
 本日飛行時間9時間、着陸空港8ヶ所。

 目標フィリピン全空港制覇
 ミンダナオ島東海岸北上した日本人操縦士は
 僕とcaptainビゴテだけでしょう。

 でも何にも無かったですよ。
 サマール島東海岸と同じですね。

 帰着時、後部席のフィリピン人アシスタントも
 captainビゴテも ふらふら状態。

 captainyamaナンでソンナに元気なんだい?
 ・・・『そりゃあ僕はお金払ってるもの、元取る為に必死だよ』 

 日本でコンナに無茶な飛び方する人居ないでしょうね!
          

         それではまた後日  
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 物騒なミンダナオ島に比べ日本は何と平和なことか!
札幌近郊の我が家の上空まで飛んだ楽しい映像を載せます。


英国湖水地方 ピーターラビットの旅  風を楽しむ旅

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(湖水地方の長閑な風景)

     
 四月 春 やや寒い英国湖水地方を旅しました。

 エジンバラから8日掛けて南下しロンドンに至る旅でした。
 此の地方に山は有りません。

 丘陵と湖水地帯、殆どがやや起伏の有るうねった地形
 北海道の富良野に似た地形
 ゴルフ場の様な地形、ゴルフ発祥の地と聞き肯けました。

 英国風写実絵画のテーマは
 何時も田園風景と海戦風景
 此の印象を持って居る方も多いと思います。

 将に此のとうりの田園風景でした。

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(ピーターラビット発祥の地)

 僕の旅は何時もドキドキする様な
 何か(世界で一番)が有る旅です。

 地雷が埋まって居る様な、鳥葬が有る様な
 高度4000mを越える様な
 BBCのニュースで見る様な旅でした。

 でも英国には何も有りませんでした。

 只々平和で清閑で林が有って空気が冷たくて湿気が有って
 ソンナに大きな町も無く
 英国は中程度のヨーロッパの国でした。

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(御風呂の語源 バースの町)

 インドのムンバイに有る
 国鉄駅前広場の壮大なスケールと美しさを知る僕にとって
 大英帝国は偉大な国です。

 19世紀壮大な足跡を残し
 20世紀にも世界史のリーダーに成った国

 でも本国を見てみると普通の国、とり立てた産業が有るでは無し
 ロンドンにしても特別な都市と云うでも無く
 人に狂気な活気が有る訳でも有りません。

 スペインのマドリッドを見ても其れは同じ事です。

 産業構造が変り
 国勢の順位が変る中でヨーロッパ全体が
 《斜陽の時代》にはいった事は動かし様の無い事実のようです。

 対して中東の人口増
 中国を含めたアジアの狂気的発展を見ると

 50年後の世界は今とは全く違う勢力図に成っている
 だろう事は誰が見ても明らかだと思います。
      
 人口減に歯止めが掛らず主体的外交も選択出来ず

 内部改革も思うに任せ無い日本は
 対外債務 資産の踏み倒しに遭いながら
 ジリ貧で落ちて行くだけなのでしょうね。

 多分歴史の必然の渦の中に
 既に深く・深く巻き込まれてしまっているのだと思います。

 《失われた15年》1990年が
 日本に執っても其れ程大きな歳だったとは
 アノ時は夢にも思って居ませんでした。

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(国会議事堂)

 英国湖水地方の旅は結局
 浸って楽しむ旅なのだと思います。
 夕方、気の知れた同行者と田舎のパブに行きました。

 ワングラス200円程度のビールをセルフサービスで楽しみました。

 東京オリンピックの時日本に行ったと云う
 英国人の叔父さんと話し込みました。

 田舎の町の散策の途中
 3時のティーセレモニーを楽しみました。

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(バッキンガム宮殿の衛兵)

 8日間ズッート一緒だった
 スコットランド訛りの運転手君と別れる際には
 涙が込み上げてきました。

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(スコットランド訛りの運転手さん)

 退職した商社マンの御夫婦とは
 北京の話で教えて貰う事がトテモ多かったです。

 当たり前の旅行なのかも知れませんが
 僕にはエキサイトする旅ではなく、肌で風を楽しむ旅でした。

 冷たく湿気った湖水地方の旅
 いつか何処かで又思い出す事でしょう

 皆さんの笑顔と共に。
                 

      それではまた後日
   
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(楽しい旅をありがとう)

Jazz’n Bluz チャリティー イン セブ

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(JAY)

 セブ市アヤラに在るジャズレストラン Jazz’n Bluzで
 3月7日チャリティーコンサートが有りました。

 出演はJayとYuka Kamebuchi 日本人です。
 夜9時から始まり、会場は満席でした。

 音楽好きのセブ市副市長も駆けつけてジルバを踊り
 会場は大盛況の内にフィナーレを迎えました。
 お客さんは60%が日本人でした。

 Jayって知ってますか。
 ゴスペルを唄っているYuka Kamebuchiは知って居ましたが

 Jayは知りませんでした。
 久保田 利伸と郷ひろみを足して割ったような歌手でした。

  ドンナ歌手だい ?。 

 彼はニューヨーカーの臭いがしました。
 日本人でも無く、フィリピン人デモナク、アメリカ人でもない。

 ニューヨークで生きる日本人コミュニティーの臭いです。
 第三の人種の文化って分かりますか。

 僕はセブで生きています。だから分かります。
 英語を話し、英語で考える、フィリピン人でもなく、日本人でもない
 第三の人種、無国籍人種でもないのです。

 コスモポリタンと云う単語が近いような気がします。

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Yuka Kamebuchi)


 kamebuciさんはJayとは違いますが元祖コスモポリタンです。
 強烈な個性でした。

 日本の歌「朧月夜」をレパートリーの中に入れていましたが
 フィリピン人にも受けて居ました。

 音楽の中に民族性を入れると楽しいですね。
 時には個性的 民族性を取り入れた唄も聞きたいですよね。

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 ちょうど来ていたアメリカ人のサックス奏者が
 高齢のカメブチさんに尊敬の念を込めて挨拶して居たのを見て
 「本物は分かる人には分かる」んだと思いました。

 Jazz’n Bluzは
 何時もはフィリピン人のミュージシャンで演奏しています。

 英語のJazzはフィリピン人の方がズットズット巧いです。
 此れは絶対かないません。

 加えて、人件費の安いフィリピンは
 jazz restrantが営業として成り立ちます。

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 日本では無理です。

 チップの有るアメリカでも可也きついと思います。
 だからフィリピンのミュージシャンは場数を踏んでいるのです。

 それで巧い、サービス心がある。
 御客さんもノリがいい。
 音楽好きの僕としてはセブにいて良かったと思っています。

 そして今日のコンサート
 コスモポリタンな音楽を聴けてラッキーでした。

   YukaさんJayさん来年もまた是非来て下さい。
  
 楽しい一時を有難う
 日本が少し恋しくなりました。
      

         それではまた後日
     

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マゼラン終焉の地 セブ 哀愁のリスボン べレンの塔

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(エンリケ航海王子の大航海記念碑)

        
 
 リスボンに有る
 エンリケ航海王子の大航海記念碑を見ました。

 港の湾口近くには
 ポルトガル人船員マゼランも見たであろう
 白亜のべレンの塔も有りました。

  ポルトガルの港町
 ポルトー リスボンと見て来て
 何か懐かしい風景に出会った様な気がしました。

 何処で見たのだろう・・其れはセブでした。

 セブのコンドの窓を開くと
 セブの港湾とマクタン島が見えます。

 僕は今
 マゼラン終焉の地フィリピン・セブ島に住んでいます。

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(コンドから見えるセブ港・水路の向こうがマクタン島)

 1521年太平洋を横断しきったマゼランが
 香料諸島やインドに急がず

 何故マクタン島征圧に走り
 片足が悪いのにも拘らず遠浅の珊瑚礁に下り

 海岸に足を捕られ
 現地土民に殺される愚を冒したのか。

 答えは港湾としてのセブの地形にあったのだと思います。

 当時の大砲の射程は精々1㌔

 港防衛には対岸距離1~2㌔の
 水路のような港湾が要求されていたのです。
 インドのゴア然り・イスタンブール・リスボン然りです。

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(ポルトガル・ポルトーの港)

 マクタン島はセブ本島との間に
 最短1㌔の水路が5㌔に渡って走って居ります。

 当時の軍事常識からすると稀に見る良港だったと思います。
      
 フィリピンでは最小行政単位を
 バランガイ(少し大きな町内会)と云います。

 町内会長をバランガイ・キャプテンと呼びます。

 圧倒的火力で此の一帯の酋長を恭順させたマゼランに対し
 マクタン島の酋長 町内会長 バランガイキャプテンの
 ラプラプだけは臍曲りで首を縦に振りませんでした。

 業を煮やしたマゼランは
 『この土人成敗してくれる』とばかり桃太郎侍の様に

 ヴィクトリア号他 計3隻のガリオン船から
 マクタン島のラプラプ拠点に目掛けて
 大砲をバンバンバンバンバッババンと撃ちまくったが届かず。

 (現マクタン空港滑走路口辺りだと推測
 ここは今でも1㌔程の超遠浅の珊瑚礁地帯です。
 全長26m・排水量90tのヴィクトリア号でも近づけません)

 功を焦ったマゼランは船を降り
 鎧姿に抜刀し
 膝まで海に浸かり岸に向ってウオーッと歩きだした。

 待ってましたとキャプテン・ラプラプ
 海の中ならコッチが有利とばかりバッバッバッと弓を射ち
 手下大勢で迎え撃ち
 マゼラン以下多数のスペイン船員を討ち取ってしまったからさあ大変!
 (講談調で書いてます)。

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(英雄ラプラプの像・マクタン島、マゼランが討取られた場所にあります。
隣にマゼランの墓のような記念碑があります)

 此の後、主を失った艦隊は迷走し
 スペインに帰還できたのは僅か18名だといいます。

 一方勝ったラプラプは如何したかって?。
 程なく他の酋長の騙まし討ちに遭って
 亡くなったと伝えられて居ります。

 残念 無念 
 但し彼の名前はマクタン島の町の名《ラプラプ市》と
 高級大魚《ラプラプ》の名として残り

 数少ないフィリピンの英雄として尊敬を集めて居ります。
                    
 新航路の発見と
 世界周航の世界史的名誉を与えられたマゼラン

 供に散って逝った多くの船員
 残された家族
 凄まじい時代・大航海時代。

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(坂の多いリスボン市内  ファドが聴こえてきそうです)

 リスボンの旧市街でファドを聴きました。
 大航海時代を支えたポルトガルの演歌です。

 マゼランも居た町リスボン
 ゼランも送り出したべレンの塔
 マゼランも聴いたであろうファド、曲りくねった坂の旧市街。

 みんな消えていった歴史。

 僕は今、家の窓を開けて明かり瞬くセブの街を見ています。
 マゼランも見た海と夜空と椰子の木を!

 バン バン バッバン 突然爆竹の音  

アノーどうでも好いけど窓の下で爆竹鳴らすのヤメテ呉れない!
 
 折角ロマンチックに浸ってるんだから 
 マゼラン退治の戦勝記念の爆竹  かな・・かな
             

           それではまた後日
       


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(リスボンとべレンの塔)

白砂の天国カミギン島に 山下財宝はあるのか

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(空からのカミギン島)


 ボホール島の南の海をミンダナオ海と云います。
 カミギンIslandは其処にあります。

 ミンダナオ島との間に15㌔程の海峡が有り
 経済圏はミンダナオに属します。

 5200f(1500m前後)の二つの山を中心に成り立つ活火山の島で
 火山観測には日本の観測機材も寄贈されています。

 そびえ立つ景観が綺麗で
 早朝、貨客船からふっと見上げると
 南太平洋の火山孤島に出会った様な錯覚を覚えます。


 其処にセブからセスナでチョックラ飛んで行って参りました。

 高い山には雲が付き物で
 クリーンになるのは朝晩以外は数える日々しか有りません。

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(カミギン空港滑走路)


 此処も田舎の滑走路
 距離は1マイル コンクリートで問題無し、勾配は可也有ります。

 当然海側が低く成り
 夜中に雨が降ると
 滑走路の低地部は100m程に渉り水没します。

 平常この低地部は生活道路の一部に成っているので
 着陸前のコ-ションフライトは是非とも必要です。

 (セスナ・ジプニーと衝突!)と
 新聞に載りたく無ければヤルベキです。

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(空からのホワイトアイランド)

 此の島の北西側にはホワイトアイランドと呼ばれる
 真っ白な珊瑚礁の小島があります。

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(地上からのホワイトアイランド)

 此れから行くカミギンビーチクラブからも船が出ています。
 サングラス必携

 真っ白です、コーラルグリーンの海
 波の音、ゆっくり・ゆっくり流れる時間
 Escape to the Heaven の世界が広がります。

 ビーチクラブに落ち着いてから翌日
 ガイドを付けて山に登る事にしました。

 山腹の温泉地区まで車で行き其処から足で上ります。
 トコロガ日頃の運動不足と
 思った以上に未開で険しい山道に40分でギブアップ。

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  (山の案内人・山下財宝大好き!)


 其れからはガイド3人と四方山話
 子供が椰子の樹に登りブコ・ジュースを採って来て呉れました。

 Mr.yama 此の島には山下財宝が眠っているんだぜ!
 ・・・何処に・・・

 此の近くだよ。
 なんで直ぐに掘りに行かないんだよ!
 ・・・うん まあまあ。


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(丘の上から海岸部を望む)


 話を総合すると

 カミギン島には第二次大戦中
 日本軍の守備隊が駐屯していて旧軍人が
 慰霊を兼ねて頻繁に訪れるらしいのです。

 彼らは昔の記憶を紙に認め、手製の地図を作り
 あそこに塹壕が在って、此処に武器庫が在って

 此処に墓が・・と
 60年前を思い出して、土を掘り起こすと云います。

 皆さんもう御歳で『歩くのがもうヤットなんだゼ! 
 もう此れが最後だって言ってたよ!』と言われる状態。

 古地図・土堀・旧日本兵・感涙と重なると
 フィリピンの人は全員が全員

 10人中12人は
 伝説の『山下財宝が此処に埋まってる!』と確信する
 と云う構図なのです。

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(この島ではこんな生活しています・素晴らしい純朴な田舎です)

 
 カミギンの町の外れに日本人の年配者が倉庫を借りると
 黄金の仏像がある筈だ
 いや俺は見たんだ、と云う話に成るのです。

             

  やれやれ夢があって良いですね。
 フィリピン政府の皆さん

 若し(山下財宝が)発堀された暁には
 長年の累積借款の利息の一部にででもいいですから
 打ち入れして戴けないでしょうか。

 日本も今長年に渉る不況で苦しんでおります。
 是非アジアンサミットで議題にして戴きたかったです。

 日本大使館の関係者の方、如何でしょうか。

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 (カミギンビーチクラブ)
    
      それではまた後日


 

 youtubeにカミギン島の動画をアップしました。御覧下さい。      


バリ島の猿なんか嫌いだ インドネシア

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(ボロブドゥールの御釈迦さま)

       
  『世界75ヶ国を旅して
 さぞや多くの世界遺産・遺跡を見て来られたのでしょうね』と
 ヨク聞かれます。

 其の通り!。 

 見ました・観ました みました 視ました、腐るほど見ました。

 中国で中央アジアで
 中東でアフリカで
 南米で北米で

 地中海でヨーロッパで
 ロシアでシベリアで

 オーストラリアでインドシナで
 ボルネオでフィリピンで
 
 南極で・・他に何か有りましたっけ。

 でも殆んど憶えてません。
 関心が無いんです。
 特に西遊の旅行は遺跡が多く、添乗員は殆んど考古学者なんです。

 インディージョーンズの女性版です。
 素晴らしい説明ですが聴いてません。

 じゃあ何でソンナ奥地まで行くの
 危ない想いをしてまで、と聞かれます。

 それは好奇心が只強いからです。
 覗いてみたいのです。
 何処を・? パン○の中では有りません。

 人間を人類を自分を・・!
 カッコ良過ぎでしたね。 
 家政婦は見た・・お嫌いですか。 僕は大好きです。

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(ボロブドゥール遺跡 正面)

 バリ島テロ事件のズット前
 インドネシアに行ってきました。

 バリとボロブドゥールのパックツァーでした。
 ジャカルタに降り
 国内線でジョグジャカルタまで移動しました。

 乗り継ぎまで1時間なのでテキパキ遣らなければ成りません。

 荷物を取り出すと直ぐ、嵐のようにポーターが遣ってきました。
 説明も交渉も無しに行き成り荷物をカートに積み上げ
 コッチだコッチだと持って行くのです。

 当然のようにアッと云う間に
 個人旅行ならポーターの腕をムンズと掴まえ
 「待て、説明しろ、デフニィトリィ・ノット!」となるのですが。

 此れはパックツァー
 現地旅行社の手配なのかなと
 オドオドしている内に荷物は全部持って行かれました。

 添乗員の隙を突いて!。

 ポーターの速い事 速いこと
 16ビートのリズムに僕達の4ビートでは太刀打ち出来ません。

 兎に角参加者25名
 遅れまいと必死にポーターの後に喰い付いて行くのですが

 途中エレベーターに載せられ
 団体はバラバラ、行方不明が出てしまいました。

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(ジャカルタ空港 とんでもない空港でした)

                    
 こうなると添乗員は可哀想
 集合した20人をチェックインカウンターの前に集め

 「動かないで下さいね、5人捜して来ますから」と
 動揺を必死に抑え唇を真一文字に結んで
 空港の中へと消えていきました。

 其れを視ていたかの様に
 ガルーダ航空のチェックインカウンターの若造スタッフ
 「エニバディー・スピーク・イングリッシュ」と来た。

 僕が一番若かったのでショウガナイケド
 「アイ・ドゥー」と答えてしまった。

 飛行機がアンタ達の為だけに待って居るんだから
 直ぐ移動して乗ってくれと云います。

 今移動すると団体がバラバラに成り
 モット混乱が大きく成るから其れは出来ないと云うと。

 今乗らないと此の便は2日間無いんだ
 其れでも良いんだな、ヨシ飛ばしちゃうぞ、俺は知らんぞ!。

 僕と若造は大喧嘩
 勝手に向こうが怒ってた様に思うんだけど、16ビートで。

 30分程して5人は見つかり
 案の定、ポーターと添乗員は運搬料を巡って大喧嘩

 此の頃は僕達のリズムは8ビートまで上がって来ていました。
 結局1時間飛行機は遅れてジャカルタを飛び立ちました。

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(ボロブドゥール 彫刻が絶品でした)

 ボロブドゥールの歴史的価値は判りません。

 只、角を曲がって遺跡のエントランス部が見えた時

 僕の心の何処かから
 ウォー うおー と云う叫びが聞こえて来て鳥肌が立ちました。

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(押売りだらけのボロブドゥール遺跡  押売り世界一) 

 此処でも大きな日傘を持った 
 お節介野朗と御土産売りが大挙して待構えて居り 
 16ビートで押売りに来ます。

 いろんな国で押売りと戦って来たけれど
 ボロブドゥールの押売りが世界で一番手強かったと僕は思います。
  
 世界的観光地バリ島
 現地の人の住む処は汚かったねー。

 セブ島のマクタンとドッコイどっこい
 バリ島は湿度が高い分不衛生に思えました。

 道端のドブで物を洗うのはヤメテ欲しい
 僕にはドブとしか思えませんでした。

 有名な棚田と美しい高原リゾート「キンタマニー」
 山の名前です。
 もう一度言います「キンタマニー」。

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(この泥棒さる ! 本当に忌ま忌ましい)

 海岸の見える処まで来ました。

 有名な景勝地の断崖絶壁
 美しい・ワンダフルと眺めていると
 後ろからキャーッと云う御婦人の声、ナッナント 猿でした。

 アッチでは眼鏡、コッチでは帽子
 5~6人遣られてました。

 コノ猿の泥棒めー!。
 ヒンズー教の国では何処でも猿は聖なる者
 甘やかされて凶暴で手が附けられないのです。

 インドのデカン高原でも恐ろしい目に遇いました。

 バリで、もっと腹が立つのは
 コノ猿を手懐けている猿使いが居る事です。

 凶暴な猿に帽子や眼鏡を盗られても
 親切を装った猿使いにお礼を払うと
 帽子等を取り帰して呉れるのです。 

 流石人間やっぱり猿の上だね と喜んでは居られません。 

 バリ島の猿なんか嫌いだー!

 インドネシアの旅
 16ビートと押売りと猿使いとキンタマーニ。
 
 ハラハラドキドキ、・・・イヤーア・・・・タノシカッタ・・!? 

 皆さんは如何でしたか
       

    それではまた後日
     


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(御存知 バリの絶景)

貴方は ビルゲイツ 若しかして アジスアベバ

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(アジスアベバの高級レストランの珈琲セレモニー)

       
 5年程前
 西遊の企画旅行でエチオピアを17日間旅行しました。

 旅行も最終日に近づき
 アジスアベバの有名ショーレストランで最後の晩餐をしました。

 其処へスーツ ネクタイ姿の
 明らかに政府高官と判る、エチオピアに似相応しく無い
 5~6人の団体が入って来ました。

 彼らは一組のアメリカ人夫婦を中心にして居り。
 エチオピア政府の接待会食である事が見て取れました。

 其れが ビルゲイツ・・・? 
 アメリカ人の御主人は写真で見るビルゲイツそっくり

 でも・デモ・でも 何処か変・ヘン・変なんです。
 最近のビルゲイツの動画見たこと有りますか?。

 僕は有りません。
 エチオピアで見た彼はジーパン・ティーシャツ姿
 トイレに行く時の行動が変 変なんです。

 明らかに・・御馬鹿さん・・なんです。
 顔も弛緩して、凛凛しい青年実業家の姿では無いのです。

 壊れている・・僕の印象でした。
 奥さんは普通のアメリカ人

 余り目立たなく 
 御主人を懸命に気遣っているのが判りました。
 スーツ姿の政府高官とジーパンの壊れたアメリカ人。

 其れを気遣う立派な奥さん。
 アジスアベバの高級レストラン
 余りのアンバランスで余計に目だっていました。

 でもまさか・・違うかも知れない。
 僕の好きなビルゲイツ
 みんなの憧れビルゲイツ。

 他人の空似かな・・かな・・かな?。
 と思い日本に帰って来ました。

 そして2週間後

 日本の新聞の片隅に
 《ビルゲイツ、エチオピアに多額の寄付》
 と云う記事を見つけました。

 皆さんは如何思われますか。
 天才と○○は紙一重でしょうか。
 他人の空似だったのでしょうか。

 僕には未だに判りません。

020111037
(エチオピアで出来た私の御友達) 

  
 格してエチオピア旅行は楽しく終わりました。
 17日間旅をしてエチオピア人の笑顔に癒されました。

 人懐っこくて写真も撮らせて呉れて
 バスを止めると山の中でも人が沢山集って来ます。

 風景の良い山の頂上に行くと
 子供達がノートを開いて勉強しています。

 感心だねー
 エチオピアの将来は君達に掛っているんだよー!。

 コンナ山の上で寸暇を惜しんで勉強か! 
 どれどれオジサンに見せてごらん 

 ノートを覗いてみると小学校3年生程の男の子が
 ナッナント高等数学(微分・積分)のノートを広げていました。

 ・・?・・?・そうか・・そういう事か。 
 ウーン うーん。
 そういう事なのでした。
 
 この国の子供は直接呉れとは言いません。
 大人は要求してきます。
 援助慣れしているのですね。

 外国人から貰って当然。
 10年に一度、ユニセフは
 エチオピア飢饉をネタに大きな募金をしています。

 痩せこけたエチオピア人の写真をポスターにして。
 でも写真のようなエチオピア人
 沢山見ましたよ、山の上で!。

 今は飢饉では有りません。
 多分、高地に住む人種の身体的特徴なんでしょう
 痩セコケテイルのは!。

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(移動中にみつけたエチオピア美人。 確かに美人が多い!)

  アフガニスタンでも
 ユニセフが援助する小学校の写真撮影は拒否されました。

 撮影権がユニセフに有るらしいのです。
 援助 援助も好いけれど
 援助は世界のビック・ビジネスになって居る事もお忘れなく。

 僕が思うに
 アフガニスタンの様にムスリムで自立意欲が有る国への援助は
 将来が期待できるけれど。

 フィリピンやエチオピア アフリカへの援助は
 お金をドブに捨てて且つ

 汚職浸け、援助浸け
 銃器浸けにする様なものだと。
 僕はそう思います。
     

    それではまた後日
  

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(西遊旅行の添乗員 瀬川扶佐子女史と写す タクマシイ大阪の御姉さま)

SRRV フィリピン退職者ビザ 身体検査は・・○○c'k

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(フィリピンの青い空)

 海外永住 ロングステイを考えて居る方も多いと思います。
 ではフィリピンは如何か・・。

 僕は昨年SRRV フィリピン特別居住退職者ビザを取りました。
 フィリピンに来始めて5年
 その間2回トライして失敗、今回3度目の正直で取得したのです。

 5年の間に
 PRAビザ(一般にはこう呼んでいます)の条件は緩和され
 扱う業者も経験を積んで来ているので取り易くなって居るようです。

 以前は35歳以上7万ドル 50歳以上5万ドル。
 今年からは50歳以上で
 月10万円以上の年金が有れば1万ドルの預託金だと聞きました。

 詳しくはSRRVで検索してみると沢山出てくると思います。

PICT1638
(私のPRAビザ)

 では何で2回も失敗したのか

 此れはトホホの話が、本当にトホホで
 思い出すと悲しく為ったり、悔しく為ったりで
 フィリピンに現在住んで居る方なら直ぐ分かると思います。

 フィリピンは行政改革がホントーーニ必要な国で
 本気で改革すれば暗殺どころか内戦にもなる国なのです。

 行政の美味しい所許認可業務は全てマニラが押さえていて
 マニラに行かないと申請事は殆んど何も出来ません。

 そして行政の縦割りに利権が絡んで甚だしく
 それが驚く程、もう一度言います驚く程、能率が悪いのです。

 だからアンダーデスクマネーを払って速くチャッチャッと済ませる。
 此れがフィリピン流と云われるものなのです。

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(愛機 RPC2706 ブトゥワン空港)

 例えばセスナ操縦試験に合格しました。
 私の友人は
 地元のフィリピン人のフライトスクールで実力で合格しました。

 総費用60万円(セスナ150で56時間・6年前)
 免許発行の申請(全部自分でやったと言います)をして

 免許を受取ったのは5ヶ月後だったと云います。

 僕は日本人経営のスクールでしたので
 合格後10日で免許を受取りました。

 セブで受取りました。
 今、日本人用のカリキュラムだと250万円前後だと云います。

 此の金額で確実に免許を出せるのが良心的フライトスクール
 アンタは下手だから追加訓練が必要だと言うのが
 不良フライトスクール、試してみますか。

 当り前に申請すると
 局長の机の上に5ヶ月間申請書は積上げられ
 コネを利かすと机の最前列に置かれます。

 此れが役人の本当の商売なのです。
 局長が替わると集金システムが全て替わり
 コネを再構築する為にまたお金を使う事になります。

 それが日本人用の料金に上乗せされる。

 それでも日本で免許を取るより安いので
 フィリピンや中国でセスナの免許をとる方が居るのでしょう。

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(セブ島ダナオ市の サンシャインビーチリゾート で楽しむ)

 PRAビザから脱線して御免なさい。
 失敗は預託金5万ドルを日本からフィリピンの
 自分名義のドル口座に送金した事でした。

 僕は以前からフィリピンにドルの銀行口座を持っていました。
 口座からおろしてPRAに持って行き其処で預託する。
 当然だと思いませんか。

 事前にPRAに行き説明を受けた処
 送金用の用紙を差上げましょうかと女子事務員に言われたのですが

 そんな必要はないだろうと思い断りました。
 英語で説明を受けても詳しい処までは伝わりません。

 要するに行政機関PRAの為だけに
 ワザワザ外国からPRAの専用口座に送金をした事が確認できる
 米ドルだけが預託金の資格が有ると云うことです。

 残念・・門前払い・・御役所だー!   
 其の通り お役所です。

 今回成功して振返ってみると
 送金の仕方も銀行によって様々な規定があり

 一歩踏み外すと、送金が途中で行方不明になる事が
 多々有ると云います。

 知らない異国で

 行方不明になった米ドルを銀行員とかけ合って
 英語で交渉出来る自身有りますか。
 たかが2万ドルと諦められますか。

 僕は今回預託に成功しました。
 でも預金証書は貰ってません。

 銀行で聞くとマネージャーは、証書はPRAに送られると云います。
 PRAでIDを受取るとき責任者に聞くと
 証書は銀行に保管されると聞きました。

 結局僕は預金証書を未だ見ていません。

 漫画のような嘘吐きの国フィリピンで
 果たして預託金が戻って来るか
 ハラハラドキドキ 実にオモシローイと思いませんか。

これが楽しめない人はフィリピンは諦めた方が良いでしょう。

PICT1748
(セブ島の空は ホントーに碧い 天国)

 身体検査は如何したか・・マタマタ忘れてました。

 此の国は
 海外就労者(OFW)を年に数百万人も送り出している国です。

 フィリピン人労働者は健康であると言うブランドが必要です。
 検査官の前で四つん這いに為り
 肛門を広げて診せる必要があると聞きました。

 でもまさか外国人にまで・・・。 
 肛門検査有りました、男女ともです!。

 パンツを膝まで下げてと言われました。

 エッ エッ エッエッー お医者さん そう云う趣味が有ったのですか 
 僕は有りませんが・・と 
 頭の中が真っ白に為りました。

 そして後を向くように言われ
 上体を下げお尻を開くように指示されました。

 モット開いて呉れと言います。
 お願いだー 勘弁してくれー こんな事生れて初めてだー。

 でも子供を産んでいる御婦人は動揺しないようです。
 流石お母さんは強い!。

 最後に、御自身に持病がある方
 御家族に障害者を抱えている方
 永住は絶対にゼッタイに絶対に、止めた方が良いと思います。

 何故なら此の国に人権は有りません。
 フィリピンは日本を含めたアジアで
 薬価が一番高い国です。誰かが途中で掠めています。

 輸血の血液は自らで確保しなければ成りません。
 外国人相手の病院は日本と同価格です。

 健康保険は有りません。
 薬は薬局で並んで買います。

 フィリピンの薬局では客は縦には並びません。
 無秩序に横に並んで懸命に販売員の注意を惹くのです。

 常時数十人がカウンターに集まり
 『俺にうってくれー!』とアピールします。

 希望する薬量が確保出来ない事が多いので
 薬局をハシゴします。

 病気の身体で薬を求め
 町をさ迷い歩く自分の姿を想像できますか。

 僕の横に並んだオバチャンは
 5ペソコインを5枚程(60円)手に握り締め
 一粒・二粒の薬を買う順番をジッと待っていました。病気の身体で!

PICT1930
(コンドミニアムは必需品です)

 健康デアレバ日本人として特権的生活も選べますが
 踏み外すと底は地獄、直ぐ帰国せざるを得ません。

 特に精神系の病に罹ると病院は刑務所以下
 薬治療法は有りません。

 特効薬ハロペリドールは1mg25円、月600mgで15,000円。
 日本の価格の5倍位ですか
 専門家の方如何でしょうか。

 コンナ高い薬はフィリピンでは使えません。
 だから精神病院では医者がよく殺されます。

 いわんや患者は言うに及ばず。
 医学生が実習に行くのを怖がると言います。
 医者の命も安いですから。

 さあ如何でしょう・・来ますか・・どうですか・・
 御出でなさい・・楽しいですよ・・ふっふっふっ・・  

 考えておきますか   どうぞジックリ考えてください。 
 他の国の選択肢も有りますから
      
 それではまた後日

PICT1843
(コンドミニアム自宅室内)

  
  追伸 

 渡比してからSRRVビザを手にするまでの日数。
 僕は相当優秀な仲介業者を使いましたが
 セブに居て2回マニラまで行き、ジャスト30日間でした。

 一ヶ月有効の航空券でしたので最後は冷汗たらたらでした。

 間に入る役所が
 SRRV・イミグレーション・銀行・国家警察・病院が有り
 其々能率が悪く
 時には信じられないような理由で待たされる事があるのです。

 一度で取得しようと思ったら
 半年有効の航空券を購入しビザを実際に受領確認してから
 帰国便の予約を入れる事をお奨めします。


   

 セブにあるビーチクラブの動画をつくりました。
ビーチクラブに浸るのもいいかも!

王様万歳 ブルネイ 豪華絢爛 ネバーランド

Scan1001
バンダル・スリブガワン 水路の街)

    
 マニラ経由で王様の国ブルネイに行って来ました。

 飛行機は満席で
 此の国で働くフィリピン人が如何に多いかが分りました。

 ガイドに聞くとブルネイ人の平均月収500ドル
 フィリピン人は400ドル弱と云います。

 モスクの外周工事に従事するOFWも見掛け
 洋裁店で働くフィリピン人の女店員さんとも仲良く成りました。

Scan1008
(海岸線にある石油掘削ドンキー)

 道路の舗装は大変良く、車も新車が多く
 バンダル・スリブガワンから1時間も走ると
 国境に至って仕舞います。

 水上から陸上への移住を促進して居るらしいのですが
 未だ未だ水上住宅が住居の主流だと見えました。

 水上には学校も有り、モスクも有り、水道施設も有り
 何不自由ない環境だと思います。

 税金は無かったはずです。
 街で道を尋ねても、英語で親切に教えて呉れました。

Scan1014
(王宮の施設 王宮の池)

 船をチャーターしての水上都市巡り
 タクシーを借り切ってモスク 王宮・名所巡り

 大きな野外マーケットもあり
 3日間はアッと云う間に過ぎて仕舞いました。
  
 治安も全く問題が無くコンドミニアムまで建設されており
 住んでみても面白い国だと思いました。

 只、如何にも小さく
 人口は首都にだけ密集しており

 西端の油井地帯までは
 人家がほとんど無かったように記憶しています。

 同じ石油国家でも
 ドバイとは比べ物に為らない位小さな町でした。

 ブルネイは国民が居て国王を擁立しているのでは無く

 世界一のお金持ちの国王が
 周りに人を集めて造り上げた
 ネバーランドの様な王国だと言う印象を持ちました。

Scan1003
(バンダル・スリブガワンは夜も綺麗です)

 テレビを視ていると王室専用の番組が有り
 一日中王室行事を放送しています。
 《今日の王様》とでも云う番組なんでしょうね。

 権威主義と云うか
 此処まで権威的に振舞わなければ為らないのかと
 王制・王様は大変だなと同情の念さえ覚えました。 
        
 金ぴかのモスク 豪華な王宮 外交の記念館
 全て王様を中心にした豪華絢爛な綺麗で美しい建物です。

Scan1002
(よく整備されたモニュメント)

 但し特徴は
 社会主義国によく有る他を圧倒する 他を寄せ付けない 
 威圧的なデザインの建物では無く

 周りに人を寄せ集めるような
 金ぴかのアジア的豪華さを競う建物だと云う事です。

 外交記念館には
 ブルネイを訪れた各国首脳からの土産品が展示して有りました。

 2時間、隅から隅まで外交の歴史を見て歩いての感想から云いますと。

 吹けば飛ぶ様な小さなブルネイ国が
 英国の支配を受け、戦時日本に攻め込まれ

 戦後植民地独立 民主化の大波の中で
 王制を保ち、独立国で有り続けて来られたと云う事は
 並大抵の苦労では無かったと云う結論でした。

 マイケル・ジャクソンの様に見える
 小柄で髭の王様
 ケシテ凡庸な家系では無かったのですね。

 どうぞ楽しいネバーランドを国民と供に造って行って下さい。
        

        それではまた後日
  

Scan1015
(金ぴかの建物があちこちにあります。サンマのからくりTVのオープニングのようです。金ぴかのモスク)

アクセス数 5871 2月 ブログの可能性と限界

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 2006年12月30日に
 セブで初ブログを公開して2ヶ月が経ちました。

 毎日公開し毎日アクセス解析を見るのを日課にしています。
 ブログランキングも試しています。
 沢山のブロガーの作品も読んでいます。その結果は如何に!。

 日本語でブログを書いていられる方は
 世界中に何百万人も居る事と思います。
 pingを見ていても一分間にエッと思うほどのブログが公開されています。

 googleを同じキイワードで検索しても
 此の3ヶ月程で多分数倍の検索結果が収集されて来ています。

 テレビが無くても、新聞・書籍が無くても
 インターネット接続環境さえあれば不自由は有りません。

 外国に住んでいると其の重要度は益々大きく感じます。

 水や空気と同じように必要になったインターネット。
 歴史が大きく動きだした
 其の瞬間に出会えた興奮を感じているのは僕だけでしょうか。

 其の原動力は膨大な数の個人ブログです。
 では誰が、何処で、何時、見ているのでしょうか。

 ハッキリ言って解りません。
 其れを見つける為にブロガーは毎日アクセス解析を見ているのです。

 ブログの可能性と限界、次に何が来るのか。
 皆さんが試行錯誤しながら探っています、毎日ブログを書きながら。
                         
 僕の2ヶ月の経験を書きます。

 内容は『セブで暮す冒険家でパイロットの御馬鹿な世界旅行記』
 セブでの生活・現地事情20%、フライト10%
 世界旅行で出会った面白い話70%です。

 文章は書くに随って変化します。
 多分1ヶ月で自分のパターンが定着すると思います。
 過去の作品は現在のパターンに修復中です。

 只今、セブには10%程しか読者は居りません。

 ping発信で、読者は日本、海外の日本人です。
 アクセス数1月3,177。2月5,871でした。
 一日の最高アクセス354、最低112です。

 300回/日を超えると0アクセスの時間は無くなる様です。
 検索で訪れる読者が多いのが特徴で
 ページ別アクセス解析が興味深いのです。

 『あっぱれエジプト航空ルクソールの旅』742 
 『貴方の9・11は?』469 後者は2ヶ月間アクセスが有ります。

 アクセス頻度は1週間が山で
 2週間続く作品はアクセス数200を超えるものです。

 2月は5本だけでした。
  時間と供に
 検索サイトでの表示順位が下がるので致し方有りません。

 作者が読んで欲しいと思う作品は他に有るのですが
 タイトルと文頭の100字だけで選ばれる為之も致し方有りません。

yama 004
(皆こうやって地味に書いているのでしょうね)

 ブログは所詮週刊誌だと結論づければ
 僕はトンデモナイ勘違い家さんだと思います。

 どんなブログでもping登録し毎日新規作品を公開していれば
 月間1,500アクセスは取れます。

 友人の話では地域社会で1万アクセスを超えるブログは
 社会現象を起すと云います。
 其の1万アクセスの内に99%のブログがヒシメキアッテイルのです。

 これが個人ブログの限界です。
 2ヶ月で解った事で面白い事は沢山有るのですが
 自分の事は之位にして。

       
 個人がブログで楽しみ
 ソコソコのアクセス数を得るには読者を絞り込む必要が有ります。

 ニューヨーク・ハワイ・セブ・世田谷等狭い地域で
 共通の体験・場所をベースに、出来れば顔を見せて
 友人のリンクを多くして
 コメントを求め、負担減を兼ねて複数の筆者で書上げる。

 営業でブログを使う時はホームページからアクセスして貰い
 ping発信はしない。

 個人的過ぎる事は書かず、冗談でも下品な単語は選ばず
 ある程度オープンに
 ブログを見ている部外者にも語りかけるようにする。

 アフィリエイトは置かず
 質の低いブログランキングには参加せず
 トラックバックは拒否し、過去ログは見やすいように整理する。

 写真だけのページ作りにはせず
 文章は1,500字以内で抑える。・・・? 
 1,500字超えましたか ?

 毎日ブログ書いて疲れませんかと聞かれます。
 疲れますねー。
 ジャー如何するのですか 

 其の時は足を洗ってよい読者 コメンテーターに徹します。
 ブロガーの皆さん
 読者参加できる質の良いブログ書いてください。
         
    

   それではまた後日


 追記 2007年 3月は6163回のアクセスでした。

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(コンドの部屋で書いています)
     

マチュピチュ温泉一度は御出で

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(御存知 マチュピチュ)

      
 ペルーの首都リマから航空機でクスコに向って上昇して行く途中
 窓からアンデス山脈の太平洋側を見ました。

 高低差を付けた立体地球儀では
 此の地帯が紐状に盛上がるように膨らんで表現されていますが
 実際に見てみると将に此の通りでした。

 海岸線から程無く
 4,000mの山脈に地形がせり上がっているのです。
 巨大な滑り台のようです。

 久し振りに感激しました。
 地球儀を創った学者って偉大ですね、尊敬します。

 マチュピチに行ってきました。
 2300mの都市遺跡、此の地帯は林のように
 尖がった山々が散在する処です。

 其の中の一つ、発掘が進んだ場所がマチュピチュ遺跡です。

 今後周りの山の発掘が進むと
 マチュピチュは遺跡群に為るのでしょうね。

 ツァーグループ間の連絡係りをかって出て
 100m程駆け足をしたらもう大変、目の前がブラックアウト
 酸素が薄いんですね。気が付きませんでした。

 此処で2日間ゆっくりピクニックして
 マチュピチュの中央広場やマチュピチュ温泉楽しんできました。

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(マチュピチュ温泉はこの先を行った処にありました)

 マチュピチュに温泉があるの知ってましたか。
 日本の温泉とは違います。
 泉温も余り高くなく、底に石を敷詰めたプールみたいなものでした。

 大きさは15mと10m位のプールが数個ありました。
 ゲストは外国人20%位で現地人多数、水着を着て入ります。

 一緒に旅をした大工の棟梁源さん。

 海パンを持たず下着のパンツを使ったからさあ大変
 帰路はズボンの下に濡れたパンツを履いて
 蟹股歩きになってしまいました。

 彼は正直者で生一本の大工の棟梁
 無骨で人情家でオッチョコチョイなナイスガイ。
 忘れられない好い人に為りました。

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(ナスカの地上絵 セスナから写す)

 マチュピチュ遺跡にはリャマと云う首の長い
 駱駝を小型にしたような動物が放牧されています。
 草食です。

 僕と一緒に遺跡を散歩していた棟梁の源さん

 草を沢山拾い集め、飼い犬に餌を与えるように
 「ホレ喰え・ホレ喰え」と草を持って
 リャマに近づいて行ったではありませんか。

 10mが5mに近づいた時
 リャマの眼は断末魔の猫の眼のように
 瞳孔がカッと開いて非常に危険な状態になりました。

riyama
(これが リャマ です)

 善良で疑いを知らず、其れでも近づく源さんに対して
 次の瞬間
 リャマは源さんの顔面に目掛けて胃液攻撃を仕掛けて仕舞いました。

 近くにいた僕はアッアッアッと源さんを助ける間もなく
 自分が胃液攻撃を避けるのが精一杯でした。

 リャマが危険だと云う事は知っていたのですが
 一瞬の出来事でしたので
 源さんがリャマに近づくのを止められませんでした。

 リャマの胃液はひじょーーーに臭く、粘りが有り
 持っていたティシュペーパーを全て彼に差し上げて
 彼から離れて見ているしか有りませんでした。 
     
   源さん御免なさい!

img929
(ヤッホーボーイ)
               
 マチュピチュ遺跡をバスで降りて来る時
 あの有名な元祖「ヤッホー・ボーイ」を見ました。
 他の国でも見ましたが、此処が元祖です。

 山を廻り乍降りてくるバスに対し
 直線で駆け降りる6歳程の可愛い男の子

 終点でのチップ・お駄賃が目当ですが
 家族総出のチームでやっています。

 生活が懸かっているのです。
 終点では「ヤッホー・ボーイ」はバスに乗り込んで来て
 写真タイムです。

 此処でも源さん
 孫のような年齢のヤッホーボーイを抱きしめ
 お菓子を山のように与えました。

 可愛い・可愛いと離しません。
 子供は営業マン
 沢山のお客さんに挨拶して現金を家族に持ち帰りたいのです。

 源さん察してやれよー。

img888
(チチカカ湖の黒い夕焼け)

 こうしてマチュピチュを後にし
 チチカカ湖の一生忘れ得ぬ夕陽の黒い紅色を心に納め
 東京に帰って来ました。


 好い人達に出会えて善かった。

   源さん 何時か何処かで又遭いたいですね
        
    それではまた後日
    


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(近畿日本ツーリストの有名美人添乗員 坂井さんと写す)

セブ SMモール Tokyo Joes 知ってますか

PICT1048

 
   
 セブのショッピングモール SMにトーキョー・ジョーズと云う日本食レストランが昨年オープンしました。

 フィリピン人の経営でフィリピン人のデザイナーによる店造りです。
ニューヨークでも日本人以外の経営者による日本食レストランが流行しています。

 来客数はニューヨーク同様セブでも、純粋日本人経営の日本食レストランに軍配は挙がって居りますが、其のデザイン性・発想は日本人の到底及ぶ処では有りません。

 ニューヨークの其れが若し青山に出店したら、セブのトーキョー・ジョーズが渋谷に出来たら、ドレダケ流行るか?。実用一本の吉野家に遊び心が有ったら、寿司屋がもっと御洒落だったら、日本の食文化はもっと楽しく成るのに!と思いませんか。

 「失われた15年」の間に全産業が余りにもコンサバティブに成り過ぎたとは思いませんか。外国を多く旅してみて画一化・合理化一本の日本のデザインに僕は魅力を感じません。

 日本の独自性をもっと違う視点で、外国人の視点で掘り起こしてみたら楽しいのになあーと僕は思います。

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(アジアから見たTOKYOのイメージ)
  
 マンハッタンで台湾人経営の日本食レストランに行きました。
吟醸酒が4種類のセットで出され、確か20ドル位だったと思いました。

 吟醸酒ってお米のワインですね。其れならアッサリメの白ワインで御寿司は充分美味しく戴ける筈だし、吟醸酒セットって其の侭寿司屋のメニューに戴けませんかねー。

 アボガド巻きって意外とイケルンですよ。外人さんが捻った物をもう一捻りしてみるとゲテモノが意外と化けるかも知れませんよ。

 今や世界中に日本食レストランが有ります。ケニアにもカイロにもバクダッドにもメキシコシティーにもリマにもバンクーバーにもコスタリカのサンホセにも、勿論モスクワ・パリ・ロス・ニューヨークにもありました。
 伝統に胡坐をかく事なく、本家日本食も変ってみては如何でしょうか。

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 SMのトーキョー・ジョーズ如何ですか、価格は日本人経営のお店の半額です。
 接客や経営に未だ改善が欲しい処が沢山あるお店ですが、同じ様な課題を抱えても胡坐をかいて十年一日の経営をしている日本人経営のレストランも有るのですから、トーキョー・ジョーズの健闘を期待したい処です。

セブに御住まいの方、日曜日に御家族でお出かけに成ってみては如何でしょうか。
           
          それではまた後日
   


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イエメンに逃げた南ベトナム軍兵士 ベトナム縦断1500㌔

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(ホーチミンの元大統領官邸 現在 博物館)

 ベトナムに未だ観光ビザが必要だった頃
 南北に縦断をした事があります。

 僕の青春時代にベトナム戦争があり
 米国の敗退に拍手した立場から
 是非行って見たい国の一つでした。
 
 何故ライオンが鼠に此処まで手古摺り、不名誉を被り
 後の米国経済の凋落を招いた原因を造ってしまったのか?。
 テーマが大きすぎてトテモ僕の手には負えません。
 
 当たり前 ・・か

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(奇景 ハロン湾 映画007にも出てきました)

 ベトナムは海に張り付く様にして南北に細長い国です。
 先ずハノイに行きました。
 飛行機は霧が出て、何度も旋回してやっと降りました。

 お百姓さんは三角の笠を被り
 モッコを担いで作物を運んでいました。

 エーッ本当に未だコンナ事遣ってるんだ。
 タイでも見なかったゾ こんな事!。 

 其れもミンナがそうでした。
 そしてリズムが速い エイトビートでは無い、そう16ビート。

 面白い事に南下してダナンに行くと8ビート
 ホーチミンに行くと4ビートに成るのでした。

 ハノイでは働き過ぎで農民の過労死が有ると云います。
 私見ですが中国系の顔は北部に多かったように思います。

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(ベトナム人はアオザイがよく似合います)

 ベトナム人は民族的にはマレー系で顔が小さく
 小柄ながら足が長い
 そうアオザイがぴったりと身体に合う体形です。

 公務員や高校生が制服としてアオザイを着用している為
 アオザイはポピュラーに存在しました。

 観光客にとって有り難い事でした。
 日本のホテルでも着物如何ですかねー。

 中部の古都フエを観光すると
 此の国に中国的な永い王朝時代が有った事が解ります。

 交易の要が船だった頃には
 長い海岸線は大変な財産だったのでしょうね。

 南下するに随って中国色が薄れ
 東南アジア色が強まりホーチミンは
 バンコックと台北を足した様な町でした。

 ・・一体ドンナ町ダイ?! 
       
 ベトナム戦争に従事した米兵はフィリピンに暮らし
 サイゴンに出張し
 パタヤで遊び、中国文化と戦ったのでしょうね。

 ハノイのべトコンはフィリピン人のように
 直ぐに逃げては呉れなかったと云う事です。

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(古都 フエ)

 ベトナム戦争の終結時
 膨大な数の南ベトナム人兵士達は何処に逃げたのでしょうか。

 米国は勿論、カンボジアに、フィリピンのパラワン諸島に
 そして世界中に!。

 そんな兵士の一人にアラビアのイエメンで巡り遭いました。
 なんでイエメンなんだ!。 僕も思いました。

 彼の父親がイエメン人だったと云います。
 へーそんな事も有るのかい?。 

 終戦時19歳の南ベトナム人兵士だった彼は
 兎に角、先ずは英国に渡ったと云います。

 そして騙され・売られて転々とし漸くイエメンに辿り着き
 観光ガイドとして働いていると云いました。

 彼の案内でイエメンを一周し
 サヌアの彼の大きな家には奥さんと子供も居りました。

 やっと掴んだ幸せ・平和・安息。
 其々のベトナム戦争、其々の平和、其々の人生。
 ベトナムの事を語る時
 小柄で表情の少なかった彼の顔を思い出します。

        
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(中央の人物がベトナム人ガイドです・イエメン サヌアで写す)

     それではまた後日
       


バルト三国 何処でしょう

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(エストニア タリン旧市街)

      
 エストニア、ラトビア、リトアニアを《バルト三国》と云います。

 では何処にあるか知っていますか。

 僕はリトアニアの首都ビリニュスで
 一寸大きな本屋に入って書籍チェックをしていました。

 所謂立ち読みです。其処で全顧客の眼を意識しました。
 視てない様に見てる視線てありますよね。

 此の国は黒人は勿論、アジア人も見ません。
 黄色人種が本当に珍しいんですね。
 向こうが知らないんだから僕達が知らなくて当然です!。

 居直る事にしました。

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(歌の祭典をやる屋外イベント会場)

 ポーランドの北、バルト海に面した場所にバルト三国はあります。
 海への玄関口が欲しいロシアには是非とも必要な場所です。
 関心のある方はどうぞ地図で確かめて下さい。


 人口は三国合わせても800万人弱
 ソ連邦崩壊間際に独立を果たしました。

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 ここが民族問題を抱えていた地域とは思ってもいませんでした。
 ロシアと云う国は
 近隣諸民族と大変な緊張関係を持っていた国だったんですね。

 資本主義・社会主義の単純な対立軸だけでは理解出来ませんでした。

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(お城のガイドさん)

 三国を7日間で周って見て
 国毎の特徴と云うものは分りませんでした。

 只、ファッションが女性は銀髪
 (ロシア人の黄色がかった金髪とはまるで違う)のロングヘアーで
 タイトなパンツにブーツを履き

 革ジャンバーで全てが黒色。

 殆どの若い女性がこのファッションで然も・・然もですよ
 美人が多い 驚くほど多いんです。聞いてますか?。

 驚くほど多いんですよ。 

 男性は ? 

 夜、繁華街で酔っ払いに絡まれたのですが。
 其の時思った事は
 ロシアの酔っ払いの形と同じだなと云う事でした。

 眼がドロンとして相手をナブリ殺しにする眼
 腐った様な眼、ロシアでは何度も見ました。
 半分ロシアなんですね。

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(夜 この近くで 酔っ払いに絡まれました)

 此処に行ったのは6年程前でしたが経済も立ち直っており
 ヨーロッパでしたね。

 小さい国は立ち直りも速く
 ロシアの混迷に比べて対照的だと思いました。

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(杉浦記念館)

 此の後カウナスの杉原記念館、トラカイ城を見学して帰ってきました。

 此処が例えばイスラエルの様な
 狭くても特別な地域と云う事はありません。

 ただロシアとヨーロッパを理解する為には
 見ておいても損の無い場所だと思いました。
       

    それではまた後日

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(このお城 湖の近くで 琥珀を買いました)  


蜂の巣ベイルート 007は カジノに居た 白いタキシードで

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(ベイルート市内の破壊されたままの建物)
    
 4年前の春、ベイルートに行きました。

 レバノンは西ヨーロッパの小さな国の匂いがしました。

 周りの国、イスラエル・シリア・ヨルダンが
 アラブの匂いのする特別な国なのに対して
 此の国はヨーロッパの何処にでも有る普通の国の様に思えました。

 只、目茶苦茶に壊された蜂の巣の様な国でした。

 ベイルートを走ると一体どれだけの数の自動小銃が有れば
 何万トンの小銃弾が有れば
 之だけ弾痕が出来るのかと考えさせられます。

 蝿が飛んでいても撃ち落される、とは
 此の事を云うのだと思いました。

 復興するのを諦めたかの様に放置された地区が有るのとは対象に
 傷一つ無い新興オフイス街が有ったのが印象に残っています。

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(ベイルート 海岸にあったゴンドラ)

 海岸沿いにはゴンドラタワーも有り
 今思えば2003年頃はレバノンには
 丁度短い平和が有った時期だったのだと思い出されます。
   
 パレスチナの紛争が
 世界の最主要な紛争の一つであると云う事は
 論を待たないと思います。

 シリア・イスラエル、後方にイラクを控え
 此の小国の運命は木の葉の様に掻き回されて来た事は
 皆さんの知る処です。

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(ゴラン高原に行く途中で見かけたデモ)

 カラッと晴れた或る朝、ホテルで朝食を取っていました。
 窓の外の路地を通り過ぎる人を眺めながら
 僕は暇そうにしているウエイターと話をしてみました。

 彼は未だ独身で
 友人と家族の大半は
 ヨーロッパやアルゼンチンに移住してしまった、と云います。

 国の将来に付いては半ば諦めかけでいました。

 ベイルートは狭い海岸部の後方に丘陵が控えており
 住宅が其の丘陵いっぱいに散らばっている街でした。

 其処を昇って行くとゴラン高原に至ります。
 ダマスカスへの近道です。

 途中で大学生のrallyを幾度か見掛けました。
 当然の様にrallyの途中でユダヤのマークを踏みつける、
 反米ではなく反ユダヤでした。

 モーゼの昔からユダヤ人は憎悪の対象になっているのですね。
 今も多分これからも。

 歴史上で消えていった民族が多々在る中で少数でもシブトイ
 凄い、日本人には理解出来ない事です。

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(ベイルート市内 街の向こうに港があります)

 
 以前一緒に旅をした西遊旅行の添乗員の石川女史

 イランの専門家で松本清張氏と面識が有り
 インテリで美人で考古学者で
 女性版インディージョーンズの様な方でした。

 彼女が30年前のベイルートの思い出にと話して呉れた事によると。

 或る夜、ベイルートのホテルに行くと
 白のタキシードを着た
 超ハンサムな紳士がカードをしていたと云います。

 周りを美女が取り囲み
 其処だけにスポットライトが当たっている様にさえ見えたと云います。

 其の賭けっぷりの良さと
 男っぷりの良さに肝を抜かれ
 『彼は誰』と近くのディーラーに聞くと、そっと
 ゲリラのヘッドだと教えて呉れたと云います。

 ぽっと頬を赤らめ
 夢見る少女の様に語る女史の横顔を見て

 うーん・ウーン
 かっこ良かったんだろうなーと思いました。

 東西冷戦の中でふんだんに金を掻き集め
 明日をも知れぬ命で
 賭けと薔薇に興じるテロリストの姿、白いタキシード。

 将にジェームズ・ボンドの世界があったのでしょうね。
 僕は話を聴きながら彼女が素敵に見えました。
         

   それではまた後日
   


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(今では珍しくなったレバノン杉・ゴラン高原へ移動する途中で写す)

韓国は日本の30年前か フィリピンから見たコリア

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(これが南大門 焼肉屋さんではありません)

        
 日本に一番近い外国 韓国 
 兄弟の様な国 韓国 

 でも世界中を見て
 隣合っている国で仲の良い国はまず有りません。

 人間の歴史が略奪の歴史で有る以上
 隣を攻めるのが一番てっとり早いからです。

 海に囲まれた島国
 日本は特異で且つ恵まれた国だと思います。

 仮に自分が朝鮮半島に生まれた者だと
 仮定してみて下さい。

 西に中国、東に日本、北にロシア
 狼に囲まれた羊だと思いませんか。

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 此の国に決定的に必要なのは外交感覚です。
 だから何時も外交政策で国が割れる
 3つに 4つに そして今は2つに。

 此の半島に建つ民族の悲劇。やってられませんよね!

 サハリンでコリアンを見ました。
 ウラジオストックでも見ました。

 カザフスタンでも見ました。
 アメリカでもメキシコでも

 世界中で朝鮮半島出身者を見ました。

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(中央アジアのマーケットでも朝鮮半島の人達が沢山働いていました)

 北朝鮮にも行きました。
 勿論日本にも在留韓国人は沢山居ます。
    
 シリアに行った時ヒュンダイ・サムソンの看板を見ました。
 イラクでもトルコでも見ました。

 左ハンドルの韓国車は5~10年後の世界中古車市場で
 日本を追い抜く存在に成ると思います。

 フィリピン観光ではコリアンが圧倒的観光客数を
 送り込んで来ています。

 昨年パタヤに行った時もコリアン観光客が一番
 中国が其れに次いで伸びて来てると聞きました。

 流石にヨーロッパまでは来ていませんが
 時間の問題だと思いました。

 母国が発展してこそコリアンの世界的地位が上るもの
 日本人かて同じです。

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 韓国人の友人に聞くと
 国内でも業種による賃金差は大きく

 健康保険等の社会保険は未だまだ未整備で
 所得に比べ家賃も高く生活は苦しいと云います。

 台風被害の状況を見ても河川氾濫等が多く
 社会資本の基本整備が日本と比べて
 遅れていると思います。

 ソウルに林立する30階建て住宅も
 地震が無い国だからこその利点だと思います。

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(韓国の仏像は漫画チックで可愛い)


 日本の30年前を思い出して下さい。
 ドラマ《おしん》の世界的ヒット

 映画に於ける美男・美女の起用
 安易なストーリー。

 フィリピンを筆頭にした東南アジア観光の流行
 (30年前フィリピンに押しかけた建築関係の日本人
 多く無かったですか)

 アジア貿易・世界貿易の急拡大、今の韓国と瓜二つですよ!。

 韓国は日本の30年前だと言うと
 韓国の友人は怒ります。

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(釜山の市場)

 侮辱シテルノカーって!。

 でも韓国は日本と同じ道を通って来ている事は事実です。

 韓国は日本が国内的にフェアーでない国であるのと同じ
 又それ以上にアンフェアーな国のようです。

 『ズルイ奴は何処の国でも同じ様に居る』
 韓国の友人の言葉です。

 だからニュースで見る韓国人は
 何時も「アイゴー」と言って泣いて居るんですね。
     
 日本が活力を取り戻して
 日本人に生まれて良かったと思える国にするには
 改革しなければならない課題が山積しています。

 朝鮮半島の人達には
 過去から持ち越して来た課題が有りすぎます。

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(日本人にはビックリ)

 仮に五年先に課題の解決を迫られた時
 (北朝鮮の崩壊と其れの受け入れ)
 日本にお手伝い出来る余力が有るかは疑問です。

 民族の誇りと自立の為、勢いの付いて来た国力を確立させ
 必ず来るXdayに備える必要が有ると思います・・・
 外務大臣の演説になっちゃいましたねー。

 釜山に行った時
 夜迷いながら丘に広がるお店を見て歩きました。

 洋品店でシャツを買いました。
 若い店員さんに英語で話しかけると

 チョッと驚いた様子でしたが
 にこやかに応対して呉れました。

 年配者はマダマダ嫌日感情が強く
 厭な思いをさせられる事が旅行中に有りましたが

 若い方には期待が持てると思いました。


 セブに来る韓国人は新婚さんが多く
 沢山楽しんで帰って呉れたら良いなーと思っています。

  アンニョンハセヨ  コンニチワ  コムスタカナー
             

      それではまた後日



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(サハリン ユジノサハリンスクにある韓国人経営のレストラン 宴会場 働き者の韓国人は商売でも成功している)

クルド人の子沢山 産んだもの勝ち!東トルコ

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(クルド族の大家族と)  
 
5年程前トルコ東部、ヴァン湖の畔を一周した事が有りました。

 此の地帯はイラン イラク トルコの国境を挟んだ
 《クルディスタン》地域です。

 第一次世界大戦後のトルコ分割(国境分割)の際
 国土を与えられなかったクルド人の居住する地域。

 島国日本人から見ると此の地域は
 (民族が土地を確保する事が斯くも難しい事か)と
 実感させられる処です。

 北東の町カルス郊外には
 300年前に滅んだアルメ二ア人の町、アニの遺跡があります。
 余りに美しい景色に町滅亡の哀しさが一層感じさせられます。

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(広大なアニの遺跡の一部です)

 大帝国トルコにしてさえアタチュルクの出現無しには
 地球上から無くなる危機にあった事を思えば理解出来ると思います。

 クルドの人達は歴史の節々にイランでイラクでトルコで
 大量虐殺の憂き目を見て来ています。

 民族の滅亡を防ぎ権利の拡大を如何にはかるか。
 その答えの一つが人口増
 産んで 生んで 産んで 産みまくる! ・・・やって・ヤッ(失礼)。

 夫婦2人で平均10人産めば30年後にドウナルカ ???。

 恐ろしい数の人口・50年後は・・・?。
 ネズミ算ならぬ、クルド算の世界が
 此処東トルコ、ヴァン湖の畔に有りました。

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(ヴァン湖 かなり広い湖です)

 予備知識は与えられてはいたものの
 実際町が近ずくと、5人乗りのセダンに7人~8人が乗り込み
 其れも殆ど全ての車が山の手線状態なのです。

 頭掲の写真は休日にチグリス川の河岸で
 御洒落をして楽しんでいたクルド人の家族に
 頼み込んで撮らせて貰った写真です。

 此れにあと一人 
 お父さんを含め10人セダンに乗って帰りました。
 すし詰めでも楽しいだろうね、家族が多いと!。

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(アララット山 ホテルの部屋から写す)

 アララット山 ヴァン湖 ハラン モスル(イラク) タブリーズ(イラン)
 を含むこの地帯
 旧約聖書にも頻繁に出て来る興味深く且つ遺跡の宝庫。

 国家の観光収入を落す為に観光客誘拐もある世界
 夜間の外出は御法度
 なのにプラプラ夜出掛ける日本人が居るんだよ西遊の旅行は

 ・・・・僕も出ました・悪友に誘われて!。 

 昼間見ると街の彼方此方にトーチカ
 銃弾除けの砂袋、塀の上の監視小屋
 沢山有りましたねー。   オオーコワッ!。

              それではまた後日
   


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(チグリス川で羊飼いのオジサンと写す)

酋長 頑張れ 原始時代脱出 P.ニューギニア 

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(観光ガイドの酋長さん)

 P.ニューギニアはオーストラリアの影響を強く受けた国です。
 原始共産制の社会が現代に組み込まれると如何なるか
 興味シンシンで行って参りました。

  コンナ処に来る人は変った人
 以前、北朝鮮に行った時同行した方と偶然御逢いする事に成りました。
 類は友を呼ぶものですね。

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(村民は酋長の所有物・酋長の責任も重い)

 僕が思うには未だ此処の社会では
 経済的・精神的に独立した個人と云うものは極々少ないと云う事です。

  歩いた限りではホテルや工場・商業店舗は未だ少なく
 労働者として職を得ている人は少数でした。

 人間は部族が所有して居る
 其れがP.ニューギニアの今の姿でした。

 高校以上の高等教育施設も有る事は有っても極少なく
 但し学生の質は驚く程高いです。本当に驚く程高いのです!。

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(非常に優秀な高校生)

 訪問の機会が有り、学生と話してみました。
 将来の夢は、弁護士・裁判官・国会議員でした。
 総理大臣に成りたいと云う女の子も居ました。

 多分20年後には本当に実現していると思います。
 選ばれた家庭(部族長)の選ばれた能力の有る子供達ばかりでした。

 日本の普通の高校の御馬鹿な子供とは訳が違います。
 戦前の日本の高校生もコウダッタのでしょうね。
   
 急速に学制が整備され始め
 しかも子供は原始共産制の部落が抱えています。

 部落長・酋長は部落民の生活・教育に全責任を持って居るのです。
 酋長の責任は甚だ重いと思いました。

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(村主催の観光ショー)

 頭掲の半裸の酋長君
 フンドシから横チンが見えてました。

 部落の畑・家々・住民を紹介、観光案内して呉れました。
 部落民総出で作った御土産販売も有り
 観光ショウは子供まで部落民総出でした。

 酋長君は教育も有りインテリでした。
 普段の服装はティーシャツ 短パン ゴム草履です。
 夢が無くなりましたか?。

 今アフリカ迄行っても、もう本当の裸族なんて居ません。
 パンツは世界を制覇しました。

 歴史の教科書では此の後

 生産力が上昇して奴隷制、分配を巡って封建制
 商工業の発展で近代社会が生まれて来る筈なのですが。
 此処は21世紀にタイムスリップした原始共産制社会です。

 観光客も来る、豪州からの補助もある。
 民主主義も学校も法律も議会も
 テレビも英語も中央銀行も貨幣まで有るのです。

 忙しいったら有りません、順番なんか守って要られないのです。

 酋長が個人的に搾取出来る程
 部落は豊かでは有りません。

 金持ちの家と貧乏な家も無いのです。
 只、豊かな部落と貧しい部落が有るだけなのでした。

 酋長の責任はホントーに重い、重いのです。
 だから横チン出しても働くのです。

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(選挙の真っ盛り)
      
 目下一番速い儲け口は選挙でした。
 買収なんてものでは無く《殺し合い》です。

 僕の住むフィリピン・セブ島では
 お金を貰えない選挙には誰も行きません。

 平均500ペソ(1200円)が町内会長から配られます。
 此れは常識です。
 途中で掠め取られる方が問題なようです。

 日本だって僕達の親の世代では
 選挙に露骨な利益誘導が当たり前ではなかったですか。

 米国・国連は選挙・民主主義と
 水戸黄門の印籠のように持ち出しますが

 《選挙》って相当に高度な精密機械のような物で
 成熟して独立した・フェアーな精神を持った国民にしか
 扱いキレナイ物だと思いませんか。

 臣民や土民の精神では荷が重すぎる。
 だから買収が起き、買収資金を確保する為に
 汚職・収賄・国家的腐敗が起こる。


 フィリピンがその典型的モデルです。

 格してニューギニアは文字どうり「選挙戦争」が勃発していた
 と言うのが5年前の事でした。

 此れから如何なるのか10年に1度訪ねてみたい国でした。
 首相に成ると言った高校生の彼女
 何時順番が周ってくるのか僕の楽しみとする処です。
          

      それではまた後日
   

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(ラバウル空港でみつけた子供達・パンツがかわいい)


何処かで見たぞレイク・ルイーズ カナダの旅


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(中国 シルクロードにある 天池 です)

 上
の写真 中国シルクロード上に有る湖水
 《天池・テンチ》です。

 ナッナント、カナディアン・ロッキーの真珠
 《レイク・ルイーズ》にそっくりでは有りませんか?。

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(カナダ 雪のレイク ルイーズ なんにも見えません) 

 カナダには春、四月に行きました。
 もう7年程前の事です。

 レイク・ルイーズは完全に凍っていて
 周囲の山容と氷河しか臨めませんでした。

 でも《天池》観るほどに瓜二つでは有りませんか。
 カナダの無念をシルクロードで晴らしました。

 但し天池は中国の奥地
 廻りに観光施設は殆ど無く、全てが粗削りです。

 ホテル・レイクルイーズから見るアッと息を飲む
 洗練された貴婦人の美しさには到底及びません。 
   残念

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 ( ビクトリアの滝 水量がすごいです ジンバブエ側から)
  
  上の写真 ジンバブエに有る《ビクトリアの滝》です。
 《ナイアガラの滝》に似てませんか。

 水量・規模はビクトリアの方が上で
 観光客数はナイアガラの勝ちです。

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(ナイアガラの滝 カナダ側から)

 此の様にカナダは「旅行好き」の間では
 何時も比較で使われます。

 男性的カナディアン・ロッキーと女性的スイス・アルプス、
 少年的ニュージーランドの氷河山脈。

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(バンフから見たカナディアンロッキー)

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(スイス マッターホルン)


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(ニュージーランド マウントクックの近く)

  バンフ・スプリング・フィールド御存知ですか
 超の付く世界的高級ホテルです。

 このホテルは台北の
 超高級ホテル圓山大飯店と比較されます。

 トイレと浴室の広さは両者供普通のホテルの
 ツインルーム程の大きさが有り
 半端では有りませんでした。
 
 見るべき自然の宝庫で治安も完璧
 ホテル・観光業の人材も良し
 此れでもう少し物価が安ければ

 カナダは申し分の無い観光地だと思います。

 幸いパックツアーも多いので
 安く挙げる選択肢もある事だし
 定番海外旅行の優等生だと思いました。

 比較されると云う事は
 優良で上品な海外旅行の全てが此処に有る
 と云う事でも有るのです。
 
 但し出来れば季節は選びたいものです。
 良シーズンは高価格です。

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(季節が大切 レイクルイーズ)

 レイク・ルイーズが凍っていても良いのなら
 4月も楽しかったですよ。


            
 処で僕の住んで居るフィリピン、セブ島。

 決して上品な海外旅行先では有りませんが。

 パックツアーは有るのでしょうか?。


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(セブ 高級ホテル  プランテーション ベイ)

 セブのマクタン地区の
 高級リゾートだけなら有るのでしょう。
 リゾートから出さずに高いお金を取ってるのでしょう。

 マクタン島から出ると安いのに!。
 値段は10分の1です。
 
 でも汚いです。臭いです。
 夜の一人歩き厳禁です。
 友達に成るとフィリピン人にタカラレます!。 

 怖いですよ。 冗談です。 半分は本当ですよ!。

 それにしてもレイテ、北ルソン
 ミンダナオのパックツアーは本当に稀です。

 月に一本なら何とか出来ても、毎週頻繁に催行されたら
 誘拐対策が必要に成るのでしょう。

 現地旅行社に依頼して
 ガイド付きの手配旅行にするのが一般的な様です。

 其処までして行きたいか? ・・・行きたい!。 
 分る人にしか解りません。 
 
 だって僕はヤクチュウならぬ《旅チュウ》ですから・・・
            

    それではまた後日
     

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(セブ島 地元のローカルな 海水浴場 子供達と  これも楽しい)

昼食はバンタヤン島で セスナでひとっ飛び セブ暮らし

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(RPC 2706  セスナ172 キャプテンビゴテ氏と仲間達)

 初めて僕がセブを訪れた時、そうもう5年程前

 ミンダナオのブトゥアンにいく用が有り
 旅行会社の紹介でトップフライト・エアウェイズ(現在 CEBU TOP)を
 エアータクシーとして利用しました。

 セブ⇒ブトゥワン120nm(220㌔)
 空は晴れて何処までも青・青・アオ・青。

 カミギン島には雲が架かり6500fの空は雲の上。
 操縦桿を初めて持たせてもらい右に左に雲の隙間を滑らせました。

 照付ける太陽からはワルツが聴こえて来るようで
 セスナ172は力強いエンジン音を響かせます。

 雲の絨毯を滑る浮遊感
 雲の切れ間を右旋回して降下すると
 ミンダナオ島の山々が見えて来ました。

 此れが最初の操縦経験でRPC-2706との出会いでした。
                  
 此れが縁で機長・社長のcaptainビゴテと知り合いました。
 (ビゴテとはイロンガ語で髭の意味です)彼は日本人
 でも心意気は半分フィリピン人です。

 そうです《captainビゴテ》はアミーゴだったのです。 

  ・・・ここでラテンの音楽を流す・・

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 僕は100時間(1年)かけて実力で、操縦士免許を取りました。

 実力が実力であるが為に大変に大変を重ねましたが
 それは本が一冊書けるネタです。
 勿体無くて今は書けません。

 かくして
 ヘナチョコ素人パイロットcaptainyamaが誕生したのでした。

 captainビゴテはセブのパイロット仲間では非常に有名な人で

 (僕は彼の最初の弟子だ!)と言うと
 『彼は凄い、入道雲が在っても真直ぐに突っ込んで行くグレイトだ』と
 皆口を揃えて言います。

 そうです彼は雲入り名人だったのです。

 免許を取ってから後サマール島のギワンにクロスカントリーした時
 燃料給油しながら6時間飛び
 4時間ちかく雲の中と云うフライトをしました。

 僕の単独飛行なら4回死んでます。
  
   ・・ゼッタイに!自身を持って!・・

cross2039
(ギワン空港 事務所)

 場所はレイテ海戦・西村艦隊が全滅した処、

 ギワンは最初の特攻隊が突っ込んだ直ぐ側
 雲の切れ間から覗くホモンホン島
 高度300fで初めて確認出来る海上

 海面からは(御出で・オイデ・おいで)と手を伸ばす
 旧日本海軍の英霊達、

 『待ってくれ・もう少し飛ばせて呉れ』と念じつつ
 ギワン空港に滑り込みました。

 4時間
 余裕をかます教官captainビゴテの頬は引き攣り
 冷汗タラタラ。

 僕は顔面蒼白でした。
 此の時判りました、彼は天才だったのです。

  雲・気象を本当によく知っていました。
 彼は最後まで死にません 決して諦めません。

 例え死んでも一番最後に死にます。
 パイロットにとって之が一番重要な事なのです。

 今後僕が悪天候に巻き込まれた時
 若し生還出来たら彼に最初に感謝しようとその時思いました。


flight001g
(RPC2706 フィリピン人の陽気なインストラクターと)

     
     昼飯は未だか・腹減ったって・・  ゴメンナサイ忘れてました。

 セブの北60nm(108㌔)セスナで40分の処に
 白砂の楽園バンタヤン島が在ります。

 マニラからは時々直行便があります。

 セブからはバスで行くしか有りません
 一日掛けて、埃に塗れて。

 そこをセスナで昼食・ひとっ飛びです。

 captainビゴテ、ビーチクラブに予約の電話を入れてます。
 「ライスと豚とサラダとスープ2人前用意してね。 

 違う・違う ソープじゃ無くてスープ スープ
 石鹸なんか食ったら泡吹くよー」  

 フィリピンはソープとスープは同じ発音です。
 アミーゴ captainビゴテのラテンな漫才が続きます。

 セブの珊瑚礁、上空800fから如何ですか。
    

          それではまた後日
   


flight002
(現在 セブ トップ のハンガー)
    


バンタヤン島サンタフェ空港でのタッチアンドゴー訓練の動画をyoutubeにupしました。御覧下さい。

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