Blog Book of Captainyama

76ヶ国の海外旅行記です。 1999年からの世界旅行を2007年6月までのセブ島滞在中に ブログにしたものです。

中東 イスラム圏

宝石から削り出した ぺトラ遺跡 ヨルダン


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(エル・カズネ  ぺトラ遺跡のの顔です)
  
 アンマンを南に下り
 砂漠の良く整備されたハイウエーを数時間走ると
 アカバまで○○キロと云う道路標識に出会います。

 其処をやや行って右に曲がると
 道路は山地の中に入ります。

 そしてぺトラ観光のホテルの在る街に入りました。
 多分そうだったと思います。

 大分前の事なので記憶が不確かな所があります。

 この地帯は
 アカバ ぺトラ アンマン ダマスカス エルサレムを
 一緒にして考えるべき場所です。

 戸頃が御存知パレスチナの難題の為
 一度に周る事は出来ません。

 8年前最初にイスラエルを南北に縦断しました。
 エルサレムを南に下り
 エイラット(アカバの隣町)に行く途中

 砂漠の中に
 此処を左(東)に行くとぺトラ遺跡に行けると言う
 三叉路が有りました。

 何時か行ってみたい
 何時かと思い、4年前にぺトラに行けました。

 ぺトラはビー玉のような色模様をした岩を
 削りだした都市遺跡でした。

 可也広かったです。
 ダマスカスやエルサレムやアンマンの様な
 1800mの高地に在る都市では有りません。

 エルサレム等は山の頂上部に
 人間が岩や土を積み上げて築いた都市です。

 対してぺトラは偶然あった
 芸術的に美しい岩のワジ(枯れ谷)の中に
 削って造り出した都市遺跡です。

 寧ろ自然遺産のような世界遺産でした。

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 遺跡のゲイトを越え
 枯れ谷の巨大な岩の隙間を抜けていくと
 あのインディージョーンズ 最後の聖戦で有名なあのシーン

 岩の裂け目から
 宝石のようなエル・カズネ(宝物殿)が現れます。

 是がこの遺跡の最大のハイライトシーンです。
 鳥肌が立つような感動が有りました。

 此処から遺跡最深部のエドディルまで可也遠かったです。
 思っていたよりズット広い遺跡でした。

 遺跡の中にはレストランも有りました。
 値段は高いです。

 宿泊したホテルのバーでビールを注文すると
 一杯が2,000円近くした事を覚えています。

 皆さん文句言いながらも
 炎天で汗をかくものだから何杯も御代わりをしてました。

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(ぺトラ遺跡の御土産やさん。 たぶんベドウィン人)

 ヨルダンは観光で金銭トラブルがよく有ります。
 
 価格交渉で負けるとパレスチナ人は突然ウオーと叫び出します。
 エルサレムのタクシーでも料金トラブルが有りました。

 パレスチナの人は
 商売を奪い獲るか獲られるか
 殺すか殺されるかで考えて居るのではないでしょうか。

 価値を創り出すと云う考えが無いようです。
 ヨルダンは家屋も立派で豊かな国と云う印象を持ちました。

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(ヨルダン 首都アンマン 市内)

 ガイドに聞くと
 ヨルダンは石油の精製で利益が有ると言いましたが
 でも国土を縦断して見てみると
 工場・産業は全く何も有りません。

 此の人口500万人の王国に
 如何いうカラクリでお金が入って来るのか
 不思議で成りません。

 多分イスラエル パレスチナ問題をネタにした
 政治・経済的カラクリが有ると勘繰るのは僕だけでしょうか。
 獲るか獲られるかの。
                 
 以前に此の遺跡に来た事が有る人に拠ると
 此処にはベドウィンの人達が住んでいたと言います。

 今は御土産売りだけが居ます。
 此のベドウィンの人達も気性が粗いです。
 学校の教育は受けていない様に思いました。

 パレスチナを含めたこの地帯は
 世界で最も気性の粗い人達が住む処ではないでしょうか。

 90年前のアラビアのロレンスの世界
 其の侭だと云う気がしました。

 イスラエルも大変な場所に建国したものだと思います。

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 古代競技場跡を過ぎ
 エドディルまでの壮大な景色の岩山をテクテク歩き
 其の先の行止りの崖まで来ました。


 崖っぷち付近に腰をかけました。
 崖の向こうは500m程の高低差の有る谷に成って居ました。

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(エルサレムは右奥の方向だと教えてくれました。 御茶売りさん)

 お茶売りのお兄さんが遣って来ました。
 一緒に座って暫し世間話をしました。

 彼は21歳で子供が一人居ると云います。
 お父さんでした。

 谷の向こうの砂漠を越えると
 エルサレムが有るんだねと訊くと
 そうだ向こうの方角だと指差します。

 イスラエル旅行の時
 ぺトラは向こうだと指差した
 其の正反対の場所に来れました。

 ヤッとヤッと来れました。

 ぺトラの崖に座り
 ようやく僕のパレスチナの旅は完結しました。

 21歳のお父さんにお茶をもう一杯所望して
 ズートずーとずーと
 僕はエルサレムの方角を眺めていました。

             

 それではまた後日


   

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(エド ディル ぺトラ遺跡最深部にあります)

モロッコ人のように格好良く歩こう カサブランカ

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 (ホテルの窓から見えるカーサブランカ市内) 
 
 朝早く眼を醒まし、出発の仕度を終え、

 時間があったので
 窓のカーテンを開き
 ホテルの7階の部屋から出勤を急ぐ人達を見ていました。

 男性が圧倒的に多いのですが
 歩き方がとても格好良いのです。

 背筋をピンと伸ばし足をサッと前にだし
 踵から踏み込んでいく歩き方です。

 顎をひきお腹を引締め颯爽と歩くのです。
 若い男の子は全員がそうです。

 下を向いてトボトボ歩いたり
 ポケットに手を入れる輩は居ません。

 前を向いて真直ぐに歩いて行きます。
 だから速い、若々しい、清々しくてカッコイイのです。

 金が無くても
 空元気でも斯う云う歩き方をしていると
 運が開けてくると僕は思うのです。

 カサブランカは北アフリカ最大の商業都市です。
 前日着いて街を歩き回り
 街中のホテルのセキュリティーに道を聞いても
 笑顔で教えて呉れました。

 此の街の人が好きに成りました。

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(フェズ旧市街 丘の上に迷路のような街があります)
                
 世界一複雑なスーク旧市街と云う
 フェズの町を歩き楽しい一日を過しました。

 夜、ベリーダンスが見たくなりガイドに頼むと
 大学生のガイド助手を附けて呉れました。

 タクシーで夜のフェズの街を猛スピードで駆け抜けます。
 昼とは違う夜の顔を見せて呉れます。

 どの街も朝・昼・夜と違う顔を持っています。
 だから夜歩きは止められません。

 新市街の細い路地の入り口で車は停まりました。
 此処からレストランまで暗い路地を歩いていきます。

 幅4メートル程の石畳の道、両脇は三階建て程の石造りの壁です。
 歩くと革靴の底が石畳にあたる音で
 コンコンと反響音が響きます。

 26歳の大学生の助手と並び
 明かりが僅かな石畳の路地を颯爽と歩きました。

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(狭い路地 両脇の壁はかなり高い)

 向うからも2人組みが颯爽と歩いて来ました。
 スピードを落す事無く擦違いました。

          
 日本だと眼を飛ばした云々と
 因縁を尽けて揉める事があります。
 
 でも誇り高きイスラムの国では即殴り合いになります。

 日本のような睨み合いは無いのです。

 法律よりもイスラム道徳の世界、男の世界です。
 だからツマラナイ諍いは少ない、と僕は思います。

 レストランに着いてヤヤすると
 日本人の団体が入ってきてベリーダンスショウは始まりました。

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(名物 水売りのおじさん)

 大学生のガイド君は地理学が専攻で
 お金が無くなると休学して働き、貯まると復学する生活を続け
 今26歳だと云います。

 立派な大人です。
 日本の大学生とは違います。

 地理学だからスペインにも行ったのかと訊くと
 ビザが取れないと言います。

 隣の国ですが色々有るのですね。


   
 マラケシでは
 ファンタジアショウと云う騎馬戦争のショウを見ました。

 各20騎程が400m程離れて向かい合い
 空砲を撃ちながら擦違うのですが迫力有りました。

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(早朝の砂漠見物 真っ暗です。車の彼がドライバーです)

 カスバ地区では砂漠を4WDで走り朝日を見ました。
 ドライバーは砂漠の民のターバンを巻き
 鋭い眼だけを光らせ
 真っ暗で何も無い砂漠に4WDを走らせるのです。

 眼だけが異常で
 何人殺して来たのかと云う
 底冷えのする様な眼なのです。

 モロッコの民
 ベルベル人と云うのは砂漠の民なのですね。

 道理で歩き方からして一本筋が通っているハズです。

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(皮を染める工場 匂いがきつい)

 10日間でモロッコを一周しました。
 感想を言うと
 此の国はアトラス山脈を境に
 文明と非文明の狭間に存在しており

 革製品の加工等が有名な割には技術が低く
 金属加工も輸出商品に成る程の技術も有りません。

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(マラケシュ)

 欧州への出稼ぎも有りますが
 取分けて多いと云う事も有りません。

 アルジェリア・チュニジア・リビアは未だ行って居ませんが
 多分、北アフリカ、ベルベル人の文化は
 現代西欧文明のレベルに近づく事は当分無い

 恐らくインドのtake offの更に後に成ると僕は思いました。

 唯、尊敬すべきイスラムの道徳をしっかり持って居る民族で
 精神性も高く
 格好良い歩き方は羨ましいと思います。



            それではまた後日

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(御土産屋さん  金属具を売っています)

トルコ風呂は田舎のサウナ銭湯でした 東トルコ


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(トラブゾンの黒海です)
    
 《黒海》って見たこと有りますか

 中学校の頃世界地図を見るのが大好きでクリミア半島
 イスタンブール 日本とは遠い国
 黒い海(Black Sea)って海水が黒いのかな。

 そんな想像を廻らしておりました。
 結論を言うと《日本人から見ると普通の海でした》日本海と同じです

 日本海の方が黒い海です。
 エーゲ海のブルーから見ると黒い海なんでしょうね。

 僕の生まれた北海道の海は北の日本海
 何時も鈍よりと曇っていて、海草と磯の匂いがプンプン
 海とはそういうものだとばかり思って居りました。

 今僕の住んでいるセブ島は珊瑚礁の
 バスクリンの様なライトグリーン色です。


 カリブ海クルーズで見た海はライトブルー 刻一刻と
 ブルーの深さが変ります(カリビアンブルー)。

 念願叶って黒海南岸トルコのトラブゾンに来れ
 黒海の色を確認出来ました。
 嗚呼ースッキリした。


 古代キリスト教遺跡を見た返り
 ついでに田舎のハマムを見学しょうと云う事になりました。

    
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(河の側にあります・日本の温泉場みたいです)

 《日本の安い湯治場のような銭湯》此れが印象です。

 (上に写真掲載)玄関を入って直ぐ脱衣所、兼休息所
 個室が上下に10室程、サウナ室は数部屋あり

 円いドームの大型サウナ室には
 垢すり用の円い石の台(直径3m)があり
 垢すりサービスを注文できます。


 以前イスタンブールのホテルのハマムで
 垢すりのサービスを注文したところ

 プロレスラーの様な毛だらけのオジサンが来たと言う
 悪い思い出が有ります。

 営業時間前だと云うのにサウナ室は大変な湿気
 眼鏡があっと云う間に曇ってしまいました(其れで写真無し)。

 建物はタブン
 100年位の歴史が有る様で経営者一族の財産なんでしょうね。

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(ハマムの主人)

 ポンペイの遺跡でもイスラエルのマサダの遺跡でも
 大衆サウナの跡はあり
 お風呂は文明人の娯楽の原点なんでしょうね。

 そう云えば我がセブ島にも

 「チロリン村」や「神楽」等日本食レストランが
 お風呂・スパ・マッサージ店を兼ねる処があり
 現地人経営のスパも大盛況です。

 ただ此処はアジア
 サウナ室よりマッサージに主力が有るようです。

 セブ島を観光で訪れた際は
 珊瑚礁の海を堪能した後(セブ島式垢すり)と
 お風呂にトライして見ては如何ですか。

 毛ムクジャラでは有りません。
 
 今日はセブの観光案内風に締めます。


それではまた後日
      

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(100年以上たっているハマム・トルコ式銭湯です)

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(黒海の畔に立つアルメニア風建築)

 東トルコに位置するトラブゾンは
 アルメニア様式の六角形の建物がある街です。

蜂の巣ベイルート 007は カジノに居た 白いタキシードで

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(ベイルート市内の破壊されたままの建物)
    
 4年前の春、ベイルートに行きました。

 レバノンは西ヨーロッパの小さな国の匂いがしました。

 周りの国、イスラエル・シリア・ヨルダンが
 アラブの匂いのする特別な国なのに対して
 此の国はヨーロッパの何処にでも有る普通の国の様に思えました。

 只、目茶苦茶に壊された蜂の巣の様な国でした。

 ベイルートを走ると一体どれだけの数の自動小銃が有れば
 何万トンの小銃弾が有れば
 之だけ弾痕が出来るのかと考えさせられます。

 蝿が飛んでいても撃ち落される、とは
 此の事を云うのだと思いました。

 復興するのを諦めたかの様に放置された地区が有るのとは対象に
 傷一つ無い新興オフイス街が有ったのが印象に残っています。

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(ベイルート 海岸にあったゴンドラ)

 海岸沿いにはゴンドラタワーも有り
 今思えば2003年頃はレバノンには
 丁度短い平和が有った時期だったのだと思い出されます。
   
 パレスチナの紛争が
 世界の最主要な紛争の一つであると云う事は
 論を待たないと思います。

 シリア・イスラエル、後方にイラクを控え
 此の小国の運命は木の葉の様に掻き回されて来た事は
 皆さんの知る処です。

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(ゴラン高原に行く途中で見かけたデモ)

 カラッと晴れた或る朝、ホテルで朝食を取っていました。
 窓の外の路地を通り過ぎる人を眺めながら
 僕は暇そうにしているウエイターと話をしてみました。

 彼は未だ独身で
 友人と家族の大半は
 ヨーロッパやアルゼンチンに移住してしまった、と云います。

 国の将来に付いては半ば諦めかけでいました。

 ベイルートは狭い海岸部の後方に丘陵が控えており
 住宅が其の丘陵いっぱいに散らばっている街でした。

 其処を昇って行くとゴラン高原に至ります。
 ダマスカスへの近道です。

 途中で大学生のrallyを幾度か見掛けました。
 当然の様にrallyの途中でユダヤのマークを踏みつける、
 反米ではなく反ユダヤでした。

 モーゼの昔からユダヤ人は憎悪の対象になっているのですね。
 今も多分これからも。

 歴史上で消えていった民族が多々在る中で少数でもシブトイ
 凄い、日本人には理解出来ない事です。

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(ベイルート市内 街の向こうに港があります)

 
 以前一緒に旅をした西遊旅行の添乗員の石川女史

 イランの専門家で松本清張氏と面識が有り
 インテリで美人で考古学者で
 女性版インディージョーンズの様な方でした。

 彼女が30年前のベイルートの思い出にと話して呉れた事によると。

 或る夜、ベイルートのホテルに行くと
 白のタキシードを着た
 超ハンサムな紳士がカードをしていたと云います。

 周りを美女が取り囲み
 其処だけにスポットライトが当たっている様にさえ見えたと云います。

 其の賭けっぷりの良さと
 男っぷりの良さに肝を抜かれ
 『彼は誰』と近くのディーラーに聞くと、そっと
 ゲリラのヘッドだと教えて呉れたと云います。

 ぽっと頬を赤らめ
 夢見る少女の様に語る女史の横顔を見て

 うーん・ウーン
 かっこ良かったんだろうなーと思いました。

 東西冷戦の中でふんだんに金を掻き集め
 明日をも知れぬ命で
 賭けと薔薇に興じるテロリストの姿、白いタキシード。

 将にジェームズ・ボンドの世界があったのでしょうね。
 僕は話を聴きながら彼女が素敵に見えました。
         

   それではまた後日
   


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(今では珍しくなったレバノン杉・ゴラン高原へ移動する途中で写す)

クルド人の子沢山 産んだもの勝ち!東トルコ

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(クルド族の大家族と)  
 
5年程前トルコ東部、ヴァン湖の畔を一周した事が有りました。

 此の地帯はイラン イラク トルコの国境を挟んだ
 《クルディスタン》地域です。

 第一次世界大戦後のトルコ分割(国境分割)の際
 国土を与えられなかったクルド人の居住する地域。

 島国日本人から見ると此の地域は
 (民族が土地を確保する事が斯くも難しい事か)と
 実感させられる処です。

 北東の町カルス郊外には
 300年前に滅んだアルメ二ア人の町、アニの遺跡があります。
 余りに美しい景色に町滅亡の哀しさが一層感じさせられます。

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(広大なアニの遺跡の一部です)

 大帝国トルコにしてさえアタチュルクの出現無しには
 地球上から無くなる危機にあった事を思えば理解出来ると思います。

 クルドの人達は歴史の節々にイランでイラクでトルコで
 大量虐殺の憂き目を見て来ています。

 民族の滅亡を防ぎ権利の拡大を如何にはかるか。
 その答えの一つが人口増
 産んで 生んで 産んで 産みまくる! ・・・やって・ヤッ(失礼)。

 夫婦2人で平均10人産めば30年後にドウナルカ ???。

 恐ろしい数の人口・50年後は・・・?。
 ネズミ算ならぬ、クルド算の世界が
 此処東トルコ、ヴァン湖の畔に有りました。

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(ヴァン湖 かなり広い湖です)

 予備知識は与えられてはいたものの
 実際町が近ずくと、5人乗りのセダンに7人~8人が乗り込み
 其れも殆ど全ての車が山の手線状態なのです。

 頭掲の写真は休日にチグリス川の河岸で
 御洒落をして楽しんでいたクルド人の家族に
 頼み込んで撮らせて貰った写真です。

 此れにあと一人 
 お父さんを含め10人セダンに乗って帰りました。
 すし詰めでも楽しいだろうね、家族が多いと!。

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(アララット山 ホテルの部屋から写す)

 アララット山 ヴァン湖 ハラン モスル(イラク) タブリーズ(イラン)
 を含むこの地帯
 旧約聖書にも頻繁に出て来る興味深く且つ遺跡の宝庫。

 国家の観光収入を落す為に観光客誘拐もある世界
 夜間の外出は御法度
 なのにプラプラ夜出掛ける日本人が居るんだよ西遊の旅行は

 ・・・・僕も出ました・悪友に誘われて!。 

 昼間見ると街の彼方此方にトーチカ
 銃弾除けの砂袋、塀の上の監視小屋
 沢山有りましたねー。   オオーコワッ!。

              それではまた後日
   


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(チグリス川で羊飼いのオジサンと写す)

猛吹雪のカッパドキア 9時間缶詰 トイレ地獄 其の結果は

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(イスタンブール  ブルーモスク)

      
 西トルコの旅行は楽しい
 美味い、安い、盛りだくさんの定番旅行です。

 イスタンブール、カッパドキア、パムッカレの景勝地と
 トロイに代表される歴史遺産
 美味しい魚料理、嬉しい親日感情。

 外れの無い海外旅行の代表です。・・・の筈だったのですが・・
 一歩間違うと惨めな結果に成ります。
 僕の話、聴いて呉れますか・・?。

 季節は三月、春、イスタンブールは未だ肌寒く
 パッチの用意が必要でした。

 人気の旅行、時期的に未だ割安で一人参加で15万円
 友人との相部屋だと12万円と云う安さ

 当然グループ参加も多く参加者は100人弱
 バス2台の出発に成りました。

 添乗員2名
 ガイド・アシスタント6名にドライバーを含めビッシリ空席なし。

 一台は御夫婦だけ
 もう一台は(グループ・一人参加)に分かれての
 順調な滑り出しに成りました。

 旨い 綺麗 楽しいで出発した旅の3日目
 バスがカッパドキアを過ぎてパムッカレに向う途中
 前夜からチラホラ降り始めていた雪が段々本降りに成って来ました。

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(雪のカッパドキア)

 トルコはアナトリア高原に位置する国
 トルコ民族は山岳民族なのです。

 イスタンブールと中部山岳地帯は標高・気温もまるで違い
 バスが高原を上るに随って
 雪は吹雪と成り猛烈なブリザードに変ってしまいました。

 5メートル先が見えず

 当然ハイウエーも先が詰まって立ち往生
 当初1時間は僅かでも動いていたバスは
 その後8時間全く動かなく成ってしまったのでした。

 早朝出発で時は9時
 3時間が過ぎた頃食事は何とか我慢できても
 トイレはそうは行きません。

 乗員中9割が女性、それもオバサン
 ガイドの案内で当初はバスの後方外で用を足していた処
 吹雪の余りの凄さに外にも出られなくなりました。

 バス内音楽を大きくしてバケツで用を足そうと云う案も出ました。
 処が独身の女性から

 音を大きくすると(しているのが判る)から恥ずかしいと
 反対論が出され

 兎に角男性は前方に移動して呉れと云う事になりました。

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(奇景 温泉 パムッカレ)

 ニューヨーク~東京無トイレの記録を持つ僕は
 前方席で体力温存・眼を閉じて死んだ振りを決め込みました。

 6時間が過ぎ乗客にストレスが溜まってきた頃
 後方の或るオバサンがトコトコと前方席の添乗員の処に遣って来て
 (何で此の事態が予測出来なかったのかと詰問)

 其れを境に、添乗員の吊るし上げ大会が始まりました。
 男性の現地トルコ人ガイド達は右往左往するしか有りません。

 やがて其れは
 数個に分かれた女性グループ間の
 悪口合戦にエスカレートして行きました。

 目を見ずに聞こえよがしに悪口を言う
 小学生と同じレベルのアノ行動、解りますよねー。

 恐ろしや 恐ろしや オバサンパワー。
 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・迷わず成仏してください。
 只ヒタスラ念仏を唱え死んだ振りを決め込み、固まって居りました。

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(トロイの木馬)

   
 夕方5時を過ぎた頃雪が止み
 見渡すと高原道路に数十㌔に渡る車の渋滞
 除雪車の救助隊も遣って来て車列は漸く動きだしました。

 当初の予定は大幅に狂い
 それでも夜中の12時頃まで走り続け
 コンヤの近くのホテルに臨時分宿しました。

 翌日、もう一台のバスに乗った御夫婦達に聞いてみると
 ソウ云うトラブルは無かったと云います。

 閉鎖空間 ストレス 女だけ オバサン 空腹 グループ 
 トイレのキーワードが揃うと
 美しき女性達は妖怪べラに変身する様です。

 南無阿弥陀仏・迷わず成仏して下さい。・・・・成仏する訳は無いか! 
 遠い日の思い出でした。
                 

     それではまた後日
   


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(ローマ時代の遺跡の宝庫です)

国宝 竜首水瓶はリレイで運ばれたのか? イラン

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(国立博物館のHPから画像を御借りしています。竜首水瓶 )


  国立博物館の法隆寺献納宝物で国宝の竜首水瓶が好きで
 幾度か観に行った事が有ります。

 素晴らしいデフォルメ ペルシャの文化 
 シルクロードのロマンチズム
 毎回ワクワクして観た事を覚えています。

 どの時代の人が見ても素晴らしいと思える逸品

 ペルセポリスを出発した隊商が
 中央アジアを越え敦煌を越え唐の都
 長安まで大事に抱えて運び

 また来た道を引返して行ったのでしょうか。

 三蔵法師の様な困難を乗り越え!。
 幾年も掛る壮大な旅とロマン、素晴らしい。
 僕はそう思っていました。

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(イラン東部の都市 マシャド)

 2001年機会が有って2度イランに行く事が出来ました。

 最初はテヘランから西を歩き
 2度目はトルクメニスタンから国境を越えてマシャドに入りました。


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(バス後輪から出火 高速道路で停車し消火しました。テヘラン)

 テヘランまでの約800㌔を3日掛けて走り抜けました。
 相変わらずのボロ車でやっとテヘランに着いたと安堵した途端

 市内ハイウエーで左後輪付近から火を噴き
 後ろを走っていた親切な自家用車の運転者の人達の
 協力でなんとか火を消し事無きを得ました。  

 (写真掲載)イランの皆さん有難う御座いました。

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(マシヤド⇒テヘラン こんな風景ばかり 遺跡が沢山ありました)
     
 マシャドを出てからはズーッと砂漠 砂漠 さばく 砂漠。
 道の両脇は枯れ草、ヒナゲシも多かったと記憶しています。

 そして5~10㌔於きに
 可也大型のキャラバンサライの遺跡 遺跡 いせき 遺跡。

 こんなに隊商宿街(宿場町)が有ったと云う事はキャラバンは
 当時、ペルシャで一大産業を生していたのでしょう。

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(整備工事中の大きなキャラバンサライ 入口)

 遺跡修復が進んだキャラバンサラ(隊商宿)が有り入ってみました。

 町は可也大きく千人位が宿泊出来たと思われる設備があり
 サライ内には商売が出来る
 臨時のスペースと云う物が有りました。

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(この段の上 1坪程が隊商商人の商品展示スペースです)

 1m位高くて畳2畳程の広さ。

 もし僕が商売人なら
 八千㌔~1万㌔も旅をして唐まで行くでしょうか。

 こんなに宿場町が有ったなら精々500㌔10日も旅をして
 宿で物々交換した方が
 安全で効率的な商売が出来るのではないのでしょうか。

 そうだ! 
 品物だけがリレイで運ばれ、人は同じ処を往復していたんだ!

 現代の運送業だってそうでしょう。 

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(かなり広いキャラバンサライでした)

 そう思うとロマンチィズムが半減しました。

 僕達はテヘランの後、カスピ海までイラン高原を駆け下り
 ロシア人との混血のペルシャ人を多く見て

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(カスピ海 大型貨物船も沖合いに見えました)

 フィリピンの様に蒸し暑いイランを経験し
 27日間の長い旅行を終えました。

 此れも西遊の旅行で個性の濃い参加者
 濃い旅行内容で些か疲れました。
         

    それではまた後日

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(27日間 シルクロード走破 石川女史 イラン側スタッフと 西遊)

エルサレム ダマスカス門

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(キリスト誕生の場所)

 北京経由でテルアビブに着き
 標高1800mのエルサレムに向かう途中
 数年ぶりと言う雪景色が僕達を迎えて呉れました。

 初めての中東旅行にイスラエルを選んだのは
 僕の単なる好奇心と偶々イスラエルの治安状態が良好だったと言う
 偶然が重なっただけでした。

 でも此処で受けたカルチャーショックが
 その後75ヶ国を旅行させた原動力になったのだと僕は思っています。

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(オリーブ山からエルサレム市街を望む)

 翌日の早朝

 高台のハイアット・リージェンシーHotelからは
 エルサレム市内が一望でき
 僕は旧市街にむけ一人でトコトコと下っていきました。

 自動車の修理工場があり住宅があり
 中東の何処にでもある普通の町でした。

 旧市街に近ずくに連れ商店が増え
 道を訪ねながら50分程歩くと道が開けダマスカス門に行き当りました。

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(岩のドームの前で)

 コーランが大音響のスピーカーで流れ
 門の前には乞食 乞食 乞食、年寄りが
 通り往く人を睨み付けガントシテ要求する。

 臭い、食べ物屋の臭い、土の臭い、汗の臭い
 千年変らない様なアラブの世界。

 鋭い眼光、眼 眼 眼、僕達の日常には無いパレスチナの世界。
 鳥肌がたちクラクラするのを覚えながら
 門を抜けてビアドロドーサの世界に入っていきました。
           
 迷路の世界
 キリストの前から数千年変らず其処に建つ石の家々。
 モロッコのフェズの旧市街には人の笑顔や和みがありました。

 ですが此処には在りません。
 パレスチナの現実。ユダヤ人も強烈だがパレスチナ人も強烈です。
 濃すぎる世界
 対抗できるのは、うーん・・
 大陸中国人のパワーぐらいかな!(笑い) おっと失礼。

 嘆きの門ではユダヤ教の僧侶の
 《貴方は神を信じますか》布教に合いました。
 でも僧侶の眼は腐っていて、体臭が鼻に着きました。

 僕は此処の国の若者(ユダヤ人)が余り好きになれませんでした。
 と云うのは空港で ホテルのフロントで 布教で。

 子供に引っ掻き回された
 という印象を持つ場面に多く出会ったからです。

 『ユダヤの若者は他者を小馬鹿にしている』
 と云う印象を僕は持ちました。

 何と云うか日本人の国民病が《イジメ症候群》なら
 ユダヤ人の民族病は《馬鹿息子・娘症候群》だと此の時思いました。

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(嘆きの門)

 イスラエルの皆さん、違っていたらゴメンナサイ!。
            
 カクシテ8日間イスラエルを一周し歴史の深さ、自然の面白さ
 現代史の複雑さを堪能して帰国しました。

 此の後75ヶ国(放蕩)?の旅が始まるのだけれど
 最初に回答を見た試験のようなもので、全ての鍵は此処にあった。
 イスラエルに行って良かったと今つくづく思います。

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(イスラエルには壮大な自然があります)

 此の時パスポートにイスラエル入国スタンプを押したが為に
 行けなくなった国が多々あります。

 イスラエル入国時スタンプを押すか否か訊かれるのですが
 スタンプ欲しさに(please do it)とはくれぐれも言わないように!。

  往けない国は如何したかって・・・
 パスポート切り替えてから行きました。 ハイ  
    

     それではまた後日
                    
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(聖墳墓教会・ここの僧侶はみんな怖い顔しています)

あっぱれ エジプト航空 ルクソール の旅

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(御存知 スフィンクス カイロ)


 7年程前、エジプト航空 南回りで
 カイロ・ルクソール アブシンベルに行った事がありました。

 たしか、マニラ バンコク ムンバイを経由し
 20時間位掛かったと云う記憶があります。

 定番海外旅行と云うのは《ハズレ》が無い旅です。
 観るべき物が多く、旅客も多く、随って価格も安いので
 之れからも定番になる事でしょう。

 しかし遠い、長い、辛い
 早朝6時に着いて其の儘ピラピット観光です。
 ゴチャゴチャしたカイロ市内を走り
 バスが止まると其処はピラミットでした。

 
img331
(ギザのピラミッド)

 砂漠はどうした
 砂漠の中にポツンと孤高のスフィンクスがあるんじゃないのか。
 街の外れだろ此処は。
 寝不足で夢の中に居るのか僕は!。

 ツアー同行者は平均70代
 之れがホントの《冥途の土産》になるぞー!。
 ねむい  やばい
   
 カイロを後にしてルクソールに向かいました。

 エジプト航空の国内便なかなか出発しません。
 ドアがロックされたと思ったら又開きます。

 1時間に5~6回繰り返しています。
 何が起きているのかと少々不安になって来ました。

 そして最後にドアが開いた時
 ナッナントゆで卵が10ケース入って来たのです。

 《ゆで卵待ち》だったのか此の機は!。 あっぱれ エジプト航空!。

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(ルクソール)

 無事ルクソールに着きました。

 僕が行った7年前はルクソール事件の後
 ようやく観光客が戻り始めたばかりの頃でした。

 未だ事件の記憶も生々しく有り。
 事件の朝 観光客達を送りだしたと言うガイドに
 話を聞こうとすると黙り込んでしまいました。

 ルクソールの街は夜でも100mおきに観光警察が立ち
 安全に問題は有りませんでした。

 
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(サッカラのピラミッド イラン・イラクで見たジグラッドに似ている)


 シェラトンhotelのバーで、退職した英国人の教師夫妻と知り合い
 聞くとエジプトに10回以上来ていると言います。

 何故、此処にばかり来るのかと聞くと
 『それはエジプト人の笑顔だよ』と夫婦共に言います。 
 笑顔ねえ! そうかなあ? 本当かなあ? 

 でも今、僕はセブに住んでいて思います。
 そうだねえ! 笑顔だよ!。
 セブアノの笑顔。 笑顔なんだよ!

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(悠久のナイル河 流れていません) 

 ナイル川は流れていません。
 ルクソール(標高250f)→カイロ(標高80f)標高差170f。

 直線距離約500㌔で蛇行している河は
 タブン細長い湖沼のようなものなのでしょう。
 日本人の河のイメージとは可也違います。

 夕方になり闇が降りてくる頃Luxorの空は薄紫色に替わります
 薄むらさき色なんですよ!。

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(ルクソール神殿 入口)

 幾千年も変わらずモーゼの昔からナイル河畔の人達は
 この色に染まりながら一日を終えたのでしょうか。

 ウーン ウーン うーん ロマンチック !

 その後アブシンベル神殿までナイル川を遡り
 エジプト旅行は幕を閉じました。

 その先のナイル川はスーダンに続きます。
 ヌビア砂漠の世界です。
 ハルツーム・動乱の都市、チャンスが有れば
 何時か行ってみたいと其の時思いました。
            

  それではまた後日
     


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(アブシンベル神殿)

イエメン 栄光のモカ港

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(イエメン サヌア門)

    
 珈琲好きの方なら《モカ・マタリ》を御存知だと思います。

 モカ・マタリ№9、世界最高級の珈琲豆
 上級品は焙煎前の生豆でも匂います。

 ハンドピックで不純豆を取り除き、やや深く焙煎してネルで漉すと
 トロミと甘味と独特の苦味が奥歯に残る珈琲の液になります。

 想像するだけで唾が滲みだして来ます。
 絶品の珈琲、ウーン 早く飲みたい
 オッと此処はフィリピン・セブ島、望むべくも有りません。

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(サヌア市街)

 4年程前、9・11の後
 最高の珈琲豆を求めてイエメンに行ってみました。

 当時イエメンではアルカイダ関連のテロが頻発しており
 出発間際で旅行がキャンセルになり二度目の正直で催行になりました。
 旅はチャンスだと思います。

 標高3000mを越える首都サヌアは空気も乾燥しており
 静電気に悩まされました。

 ドアノブでビリッ、バスの金属取っ手でビリッ
 時々バッシーン!
 心臓に悪いは本当、軍手は必需品ですね。

 伝統を守り、信心深く
 男気の世界のイエメンは一方でまた最貧国。

 其れでも全国の道路網は整備され
 大型トラックがサヌア⇔ホディダ(港湾都市)間を
 毎日一往復できる様に成りました。

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(こういう場所でモカ・マタリは栽培されていました。過去)

 サヌアからホディダまで下る途中の
 10,000f(3000M)を前後する大山岳地帯

 山がボウルのようにで凹形に削り採られた様な地形
 (コスタリカのサンホセでも見たぞ!)が目指すモカ マタリの大収穫地帯
 ・・・・の・・・のはずだった・・が。
        
 無い、無い、ナイ、ない。モカマタリが無い。

 数千年続くと云う伝統的棚畑、勤勉な山岳民族
 幾世代にも渡り土を造り
 果実作物にとって最高の生育条件の自然環境。

 植えてあるのはカートと云う覚醒作用のある葉っぱ
 いたる処、葉っぱ 葉っぱ 葉っぱ、

 最高の珈琲モカ マタリの産地は
 最高級カートの大収穫地に変わっていました。

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(山道で出会った地元の親子 純朴です)

 珈琲豆も作っているとは聞きましたが一度も見ませんでした。
 道路網が未整備の時代は珈琲豆をロバに載せ
 山道を一週間も掛けてモカ港まで運んだのでしょう。

 今は大型トラックで海岸まで半日。
 珈琲よりも高価な最高級カートの方が収入になります。

img772
(民族服を着た子供 この子も純朴 後背地が棚畑 
こう云う場所でかつてモカ・マタリは栽培されていた)

 バスのドライバーは普段は精彩のないオニイチャン
 運転中はカートを噛んで見る見る性格が変わるのです。
 眼が爛々として裕次郎になるんです、怖いですよ!。

 ガイドが此処のカートの質の高さを力説します。
 分かったよ 解ったよ、でも夢がないねー!
 葉っぱじゃねー!。

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(タイズの珈琲焙煎店 年季のはいった焙煎機)

 高原リゾート《タイズ》にも途中立ち寄りました。

 街を歩くと珈琲豆焙煎店、さてはと思い入ってみました。

 其処に大量に置いてある珈琲生豆の麻袋にはナ・ナッ・ナント
 《KENYA》と書いてありました。

img762
(モカ港 海岸線の他は何もありません)

 珈琲好き憧れの港町《モカ港》
 往時は遠浅の港から沖の貨物船にむけ
 小船で珈琲豆を搬送したのでしょう。

 今は廃屋だけが広がり、時折マーケットが有るだけです。

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(海岸沿いにある地元商店街)

 市場の奥まった処に若者が屯していました。
 珍客の東洋人が行くと葉っぱを出して歓待して呉れました。
 気前いいねー。高級の高価な葉っぱなのに!。

img763
(昔の栄華 珈琲豆関係の施設)

 男気がここの美徳らしいです。
 葉っぱを5~6枚口に含んで噛んでみました
 ほろ苦い味がしました。

 旨いだろうと聞いて来るので、うんうんと笑って肯き
 礼を言って其処をあとにしました。

 なんとも不思議な国イエメン
 モカ港の御兄ちゃん達は
 今日も葉っぱを噛んで海を眺めているのでしょうか。
             

         それではまた後日
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(葉っぱをくれた モカ港のお兄ちゃん達 御礼の握手)

【珈琲関係の方 写真を自由に使って頂いて結構です】筆者

ジャララバード in アフガニスタン

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(ジャララバード市街)

 
 ジャララバードと云う町の名をご存知でしょうか。

 僕が何時か書いてみたいと思っていた町の名です。

 9・11の後米軍のアフガン侵攻が始まる前後

 多くの欧米ジャーナリストが陸路パキスタンのイスラマバードから
 カイバル峠を越えカブールへ向かう途中

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(カイバル峠 向こうが アフガニスタン)

 此処ジャララバード近郊で姿を消しました。

 2004年夏僕がカブールに入った頃は軍事・治安が安定を取戻し始め
 『カンボジア方式』 (多国籍軍による治安回復の後

 日本の財政支援による経済的安定)が本格的に機能し始めた時で

 カブールは住宅建設 中古自動車 駐留軍を中心にした
 将にバブル経済の始まりのような活況の中に在りました。

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(繁栄するカブール市街)

 蜂の巣のような弾痕跡・破壊された建物の跡、
 爆弾で破壊され胴体が膨らんだ鉄道貨車
 キャタピラを外されたソ連製戦車

 膨大な地雷の処理
 墓場には竹竿に赤青の幟をたなびかせた兵士の墓標

 その街を日の丸を附けた公共バスが走り
 バス停にも日の丸がプリントされ
 街に溢れた中古車は全て日本製でした。

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(私達をライオンズと間違えて 歓迎してくれました。クラブ員はその後に着いたはずです)

 日本のライオンズクラブが学校を寄贈したらしく
 日本人スタッフともホテルで会いました。

 子供は店番しながら教科書を広げ
 内戦で負傷して物乞いをする元兵士

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(子供は何処でも 明るい。店番しながら教科書をひろげている)

 妙に欧米かぶれした姿の物売り
 華々しい結婚式

 小さな国や町だと僅かな資金で
 此処まで変わるのかと驚いたのを覚えています。

img875
(カブール峠 非常に険しい峠です。カイバル峠より険しいです)

 帰路カブールからイスラマバードに向かう途中
 実に険しいカブール峠を越えカイバル峠に向かう途中に盆地があり
 其処がジャララバードでした。

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(スピンガー ホテル 正門)

 元王室の別荘『SPINGHAR HOTEL』に泊まりました。
 google earthでもハッキリ解るほど大きな建物です。

 其処は地元軍の将校クラブに成っており
 重武装の護衛兵士がラウンジに陣取り
 我々が行くと丁寧に席を空けて呉れました。

 泊り客は我々だけ、当たり前かな!。
 夜には高級将校連が拳銃を抜いた護衛と共に
 冷汗を流して来ます。

 そんなに怖いのか? ここは。

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(スピンガーホテル エントランス建物)

 夕食附きの作戦会議とは少し離れた別テーブルで
 僕達も夕食を取りました。


 パキスタン人ガイドからは決して固有名詞
 (パシュトン人・オサマビンラディン・タリバン等)は云わない様に
 釘をさされました。

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(ジャララバード市内)

 此処の町が奇妙だと云うのは弾の跡が無いからです。
 殆ど有りません。

 カブールに比べ、軍事的・地理的重要性に較べて荒れてないのです。

 タリバンも此処に布陣していたと言います。
 ジャーナリストが此処で殺されています。


 将校連は可也のインテリだと言う事は見ただけで解ります。
 軍は統率が取れています。

040500129
(ジャララバード 子供達が普通に働いている)

 タブン軍事的・政治的分析力と均衡を創り出すのが
 非常に巧いのだと思います。
 だから此の小さな盆地に平和があったのだと云う事です。

 と云う事は(如何にでも変わる)と云う事。
 怖い怖い。

 今後のアフガニスタン情勢如何では
 此処はもう来れない処に成るかも知れないと
 僕は思いました。
       

    それではまた後日。
    

031124008
(バーミヤンに行く途中 北部地域)

貴方の9.11は?

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(天山山脈のなか イシククル湖畔のホテル)

 貴方は9.11の時、何処に居ましたか。

 私は中央アジアに居ました。

 キルギスタンの山を分け入りイシククル湖と云う
 三蔵法師も訪れた記録もある湖の
 畔にあるホテルに居りました。

 食堂に行くと同行者達がテレビの奇妙な映像を前にテンヤワンヤ。
 ドルは暴落、これから世界は如何なるんだ。
 でも此処は天山山脈の山中、爆弾は落ちてこないね。

img607
(キルギスタンの民族帽子)

 そして4週間の予定の旅は静かに続きました。
 4日後ウズベキスタンに入った頃から
 状況が少しづつ変わり始め

 《アメリカの特使がモスクワにコンタクトし
 ウズベキスタンに米軍の戦闘機が入って来る》

 と云う外務省筋のニュースが
 西遊旅行社の東京オフイスから入って来ました。

 サマルカンドのDiscoに遊びに行くと
 テロを警戒して生バンドの演奏は中止。

 何で、如何して
 イクラナンデモ遣り過ぎだろうと思っていました。

  img659
 (サマルカンド)
                  
 それから3日後、隣国トルクメニスタンに入る2日前
 突然添乗員の石川女史から
 旅行同行者の全体会議が召集されました。

 《トルクメニスタンはアフガニスタンに隣接しており
 訪問予定のテルモの遺跡はアフガンに近く

 その後出国しイランに入国する予定の国境事務所は
 アフガンから100㌔弱 国境閉鎖も予想される。

 旧社会主義国トルクメニスタンは
 入国の際申告した出国国境を変更するには1ヶ月を要する。

 テルモ訪問を中止して脱出国境を変更するか
 此のまま予定をこなすか、事態は流動的であり
 皆さんの判断を仰ぎたい》と云うものでした。

 僕達は此処に及んで初めて事態の深刻さに気付きました。

 アフガニスタンなんて国
 其れまで何処に有るかなんて知りませんでした。

 其処からは東京と埼玉の距離だったんです!。
 僕達は変更を可とし、トルクメニスタンに入りました。

 その後当初予定の国境は閉鎖され旅行は順調に続きました。
 西遊旅行社の情報収集力に脱帽!。

img175
(自由の女神へフェリーで向かう途中 2000年に写す)

 その数年後、機会が有りニューヨークに1ヶ月滞在しました。

 マンハッタンのマダムタッソー蝋人形館には
 当時殉職した消防士の蝋人形があります。

 その前で涙ぐむ老婦人の姿を僕は見ました。

 それぞれの9・11、深くは言うまい。
 掲載した写真には国際貿易センターは未だ写っています。
 その後アフガニスタンには行ったかって? もちろん行きました!  
        

  それはまた後日。
          


img633
(石川女史の適切な判断に脱帽 楽しい旅を有難う 旅仲間)

イラク フセイン の処刑

img825
(イラク北部の町モスルの ホテルの前で)

 イラク・フセイン元大統領の
 処刑の場面がテレビで報じられています。

 もう何年前の事でしょう
 国連の査察団が入ったほぼ同じ頃僕もイラクに入っていました。

 その4ヶ月後多国籍軍がイラクに攻め込んだのです。
 僕が行った頃のイラクは本当に静かでした。

 現地のテレビで国連の緊張したニュースが報じられていても
 アメリカは如何に孤立しているかと言う報道の仕方で

 現地の人に
 『米軍が攻めてくるんだよ、これはもう既定の事実なんだよ』
 と言ってもキョトンとしているだけでした。

img0828
(夜店の八百屋のオジサン)

 ホテルのプールでは商用で来た外国人が泳ぎ
 敷地内では毎日数組の結婚式が催され
 質素だけれど豊かな家族の暮しがありました。

 朝食をホテルのレストランで摂っていると
 美味しいチィーズが沢山あり

 実に静かで、嵐の前の静けさとはこう云うものなのかな
 と思ったことを今でも覚えています。 
  
 その後ご存知の様な事が起こり
 フセイン処刑と云う事態に成ると

 もうフセインに戻すという最後の選択肢を
 米国が採れなくなったということで

 イラクと中東情勢は西欧のコントロールを失って
 本格的に漂流を始めたのかなという印象を強く持ちました。

img0831
(モスルの水売りの少年)

 イランもシリア ヨルダン 東トルコ パレスチナも歩き

 何処の国にも同じ様に毎日の生活の為に働き
 産まれ 遊び 老いていく同じ様な家族や人達が居ることを思うと
 僕には唯祈る事しかできません。

 イラク(モスルcity)で会った珈琲売りの少年
 学校帰りの子供達

 市場の陽気な八百屋のオジサン
 遺跡を案内して呉れた粋な考古学の教授
 映画監督を夢見ていたガイドのハッサン

 ミンナ元気で 生き延びてください! (祈り)
     


img848
(ガイドスタッフ・ミンナ元気で 生き延びてください・バグダッド)

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